エピクロスの楽園

折角の人生、楽しく生きようぜ??

過食と孤独に苦しんだ日々


大学デビューって、あるじゃん。私もさぁ、大学入ってから充実した生活を送れるようにって、兎に角サークルの新歓に行きまくったんだよね。単身で上京して知り合いも誰もいない状況、気分としては最早サバイバルだったよ。思えば、自分からアグレッシブに行動を起こしたのってこれが初めてじゃないかな。


そして結局、私は計4つのサークルに入る事にした。そうしてサークルの活動に顔を出し続けて暫し。サークルの同級生は段々と仲のいいグループを作り始めて、活動中も楽しそうに喋り続ける。そんな中、私はそういうグループにも溶け込めずに、寂しい日々を過ごしていた。


要するに、私は大学デビューに失敗してしまったのだった。


仲間に入れなくて寂しいし悲しいという気持ちはあるけど、私は自分から他人と関わる事を極度に恐れていたから、結局何の行動も起こせなかった。その理由として、先ず私にとって他人という存在が理解不能な宇宙人みたいなものにしか思えないこと。そしてもう一つ、私が自分から他人と関わる事を極度に恐れていたことが挙げられると思う。


他人から話しかけられるということは、私にとってその人が私と関わる事を「許可」してくれたような感覚なのだ。その「許可」が得られない限り、私は自分から他人と接する事が出来ない。自分の存在が迷惑だと感じられる事を極度に恐れているから。


そんな状態で、サークルで上手くやって行ける訳が無かったんだよなぁ。


それでも暫くの間、私はサークルでの活動を諦めていなかった。折角大学生になったんだから、サークル活動という「大学生らしいこと」を楽しみたいという思いがあったからだ。でも、そうやって惨めったらしく足掻いていた私にも、やがてあの時期が到来する。


五月病だ。


GWが始まってから、私はファスティングに挑戦していた。「最近ちょっと太っちゃったから挑戦しようかなぁ、身体にもいいらしいし」と気軽に始めたこの挑戦。これ、実際に断食している間は特に問題はないのだ。私の場合、街を歩いて美味しそうなパンの匂いなんかを嗅いでも、「あ、パンだなぁ」と漠然と思うだけで、特に食欲を掻き立てられる事は無かったし。ただ身体が無性に怠くて、怠いけどずっと家に引きこもっていると気が狂いそうだったから、ずっと気になっていた秋葉原をふらふらと徘徊していたのを覚えている。


問題は、復食期。3日間断食した私の身体は飢餓状態になっていて、脂肪とかめっちゃ付きやすくなってるから、断食明けにいきなりドッカリ食事を取ったら忽ちリバウンドしてしまう。ただ、この複食期が辛かった。喰えるのに喰えない。まだまだ空腹なのに喰えない。これはなかなか地獄だ。それでも、折角減らした体重を維持出来るよう、私は必死で空腹感と闘っていた。


そんな最中、故郷の熊本から突然母がやって来た。母曰く「何か気になったから来てみた」らしい。んで母が来た事を横浜に住んでる叔父に連絡したら、ご馳走してやるから来いと。結局私たちは叔父に中華街で一万くらいするコースを振る舞われる事に。私は最初は「すみません、今体調が悪くて……」とか言ってたけど、結局普段は到底ありつけないご馳走の誘惑に負けて「ええい、ままよ」とばかりに喰った。めっちゃ喰った。叔父もびっくりするくらい喰いまくった。一度箍が外れたら本当に止まらなかった


復食期二日目の夜だった。


翌日、私はめでたくお腹を壊したのだった。


そしてこれを境に、私のメンタルは崩落の一途を辿ってゆく事になる。五月という時期が影響したせいなのかはよく分からないけど。


先ず、飢餓感。その一件以降、私は常に猛烈な飢餓感に襲われるようになっていた。満腹中枢がぶっ壊れてるから食べても食べても満足出来ない。食べ過ぎて苦しくなってきた頃に漸く満足出来たけど、その満足感も数分後には嘘のように引いてゆく。どうせ満足感が得られないならと食によって満足感を得る事を諦めようとしても、絶えず続く飢餓感に耐え切れず、結局食べ物を詰め込む日々。当然体重は増えた。



慌てた私はアホみたいに動き回り続けるようになった。買ってもらったママチャリで多摩川沿いをひたすら漕ぎまくる日々。終いにはママチャリで住んでいた大田区から国立市まで行ってみたり、朝早く家を出て府中駅まで歩いてみたりと兎に角喰った分カロリーを消費しようと必死だった。それに、そうやって身体を動かしている間は、飢餓感は幾分感じずに済んだし。


と同時に、母が地元に帰った後、私は猛烈に孤独を感じるようになっていた。当初は「別に地元にいた頃とあんま変わんねーな」とか思ってたけど、いざ一人に戻ってみると、白くて伽藍堂なワンルームは酷く荒涼としていて、私はこんな部屋で暮らしていたのかと愕然とした。怠くてしんどくて部屋のベッドで横になって休もうとしても、白い壁や天井が私をどんどん圧迫してくるような気がして全然落ち着けない。ここは私の居場所ではないと強く思った。


私は部屋を酷く散らかす人間だった。そして散らかった部屋の方が落ち着いて過ごせるタイプでもあった。散らかったガラクタの山は私という存在の一部であって、だから「私」で埋めつくされた部屋は私にとって酷く居心地のよいものだったのだ。


でも、この部屋はそうではなかった。白い壁紙と灰色のマットはほぼ剥き出しのままで、まるで自分の部屋だという感覚がしない。ずっとホテルか何かで暮らしている気分だった。それなのに、「自分の居場所」であった我が家はもう存在しないのだ。何故なら、愛すべき我が家は地震によってメチャメチャになっていたから。




強い飢餓感と孤独に襲われる日々。90分間の大学の授業でずっと黙って座り続けているのが余りにも耐え難くなって、登校しても一つ出席して一つサボる、みたいな事を繰り返していた。サークル活動を続けていく気力も完全に失せて、当時所属していたプロジェクトからも手を引いた。私の存在は完全に宙に浮いた。私は独りになった


夜も全然寝れなくなって、10時から2時間くらいかけて漸く寝付いたとしても、その1時間後には目が覚めて二度と眠れないなんて事はザラだった。眠たいのに寝れないどんなに頑張っても寝れない。募っていくのはイライラばかり。然も私が今居るのはあの「私を絶えず圧迫する部屋」だ。イライラしてでもどこか苦しくて、もう気が変になりそうだった。


お風呂に入る度に泣いた。訳も分からないまま泣いた。何でお風呂ってあんなに私を悲しくさせるんだろう……。暖かいお湯に浸かっているうちに心が解けて、押し殺していた苦しさが染み出してきちゃうんだろうか。気を紛らわす為に、入浴中はずっと音楽をかけ続けるようにした。電気も消した。少しはマシになったけど、それでも入浴はずっと憂鬱なままだった。




地震で大変な親にこれ以上の心労をかけないようにとずっと電話するのを我慢してたけど、向こうからかかってきた電話に出て世間話してて、そしたらいきなり涙が止まらなくなって結局無駄な心配をかけてしまった。「冷たい孤独が身体を貫く」なんて表現をどっかで見た気がするけど、それってこういう事を言うんだなって。


最早「つらい」以外の感情を感じる事が非常に困難になっていた。


だけどある日、私の飢餓感が嘘みたいに消えた。連日の過食で食べるという行為にすっかり嫌気が差していた私はそれはそれは喜んで、ほぼサラダとヨーグルトしか口にしなくなった。


すると、やがてまたあの脳を焼き焦がすような飢餓感が再発。明らかに全然喰わなかった事が原因だった。でも仕方ねーじゃん、もう喰いたくねーんだよ!! あんなケモノみたいに食料を貪り食ってカロリーだけ無駄に摂取するなんてもう気持ち悪くて仕方ねーんだよ……。でも喰わねーと気が変になりそうなんだ。あぁもう、どうすりゃいいってんだよ?!


完全に心が折れた私は、縋るような思いで精神科へと駆け込んだのだった。


精神科でサインバルタと何かの睡眠薬を処方され、一縷の望みをかけて服用し始めた私。それでも、症状はなかなか緩和しなかった。お医者さんは薬の服用数と効力を上げる事で対応した。と同時に、私に対してあれこれとカウンセリングを始めた。私がADHDだと診断されたのもその時だ。




……あのカウンセリングは嫌いだったなぁ。一体何が聞きたいのかよく分からなかったし、もう兎に角薬だけさっさとくれって感じだった。いちいち診断で金取られるのが馬鹿らしくて。効果があったのかすらよく分からない。


事実、私の本当の地獄はここからだった……らしい。


らしいというのは、正直今の私には当時の記憶が朧げにしか存在しないからだ。ただ、当時の自分のツイートを振り返ってみると、一番メンタルが悪化していたのは6月の最後の10日間のようだ。





 

わたしが唯一はっきり覚えているのは、睡眠薬を使っても一向に眠れぬ夜に耐えかねて部屋を飛び出し、ママチャリに乗ってダーッと走った事だ。その時の時刻は大体午前3時。もう鬱やらイライラやらでごっちゃごちゃになった意識が爆発してうがぁぁぁぁぁって感じでただひたすらペダルを漕いだ。顔面に受ける涼しい夜風に、少しずつ頭がスッキリしてくる。夜は真っ暗になって何も見えなくなるような田舎で育った私にとって、夜の街というものはけっこう新鮮だった。警察官に職質されたりしながらも、何となく遠くに行きたくて、夜の第一京浜をひた走る。そしてとうとう横浜駅まで辿り着いて、一息ついた後、一体私は何をやってるんだろうなぁと苦笑した。ちなみに、帰りはただただきつかった。


それを境に、私の症状は徐々に解放に向かっていった。飢餓感は完全には消えてないけど、「もう食べたくない」という思いと拮抗する程度には弱まっていた。まぁ飢餓感が爆発して過食に走っちゃうこともあったみたいだけど、その頻度も数日に一度くらいまで下がっていたようだ。今考えると、過食ってのは「満たされたい」という思いの発露、発散出来ないストレスが食欲という形で表出したものだから、その大元となる鬱やストレスが軽減されてはいたんだろうなぁって。


孤独に打ちひしがれる事も少なくなっていた。これは多分、もうすぐ夏休みになって地元に帰れる日が近づいていた事も大きいように思う。私の思考回路も、「今寂しくて寂しくて堪らない」から「帰ったらもう独りでいなくて済むから、それまでに何をしておくか」へとシフトしていった。


ただ、食べる事への忌避感はずっと残っていた。そのような忌避感は、程度の差こそあれ今でも感じている。特に、別に特段美味しくもない(失礼だけど)寮食やコンビニ飯をわざわざかっ込んで欲しくもないカロリーを摂取するという行為がどうも好きになれなかったし、そもそも食べるという行為そのものをどこか汚らわしいと思うようになっていた。それでも私は所詮動物だから、食わないと生きていけない。食うのを嫌がって拒食に走ったら、いずれ猛烈な飢餓感が再び私を襲うだろう。食うという行為は、私の人生と不可分なのだ。


結局、私が食事をすることによって満足感が得られればいいのだ。食事を摂ることを素直に楽しめればよいのだ。量で満足感を得ることが嫌なら、食事の質を上げればいいんじゃないか? 食うという行為の野蛮性を意識せずに済むほど高い質を。


そう考えた私は美食への道をひた走ることになるのだが、その話はまたいずれ。



結局、私がそんな最悪な精神状況から立ち直れた理由はよく分からない。「そういう時期だったんだろ」とか言われたらそれまでな気もする。けれど、また私が当時のような精神状態に戻されたらなんて、想像するだけで恐ろしくて堪らない。


それに、現在私は大学生なのだ。大学生といえば、幼少期を除けば、人生で最もフリーダムな時期だろう。それなのにここまでメンタル悪化してたんだから、もっともっと状況が厳しくなるであろう社会人になった時、果たして私は耐えられるのだろうかと。


……なんて、そんなことを考えてみたところで、悪戯に不安を喚起するだけだ。それは、「今を楽しく」という私のモットーに反する。


ただ、このブログが私の将来に少しでも繋がればいいなぁって。そんな期待をこめて、私は記事を書いている。


……こんなネガティブな記事でブロガーとしてやっていけるか疑問ではあるんだけど(笑)。でも、私が心を込めてお届けできる話題ってこの位だから、しばらくはこんな感じでやっていこうと思う。


皆さまの人生が、少しでも楽しいものにならんことを。


では、また。










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