エピクロスの楽園

折角の人生、楽しく生きようぜ??

弱者救済ってよく聞くけど、そもそも弱者って何なんだ??

 弱者救済の必要性については、かねてより疑問に思っていた。まぁ、そりゃあ全ての人間が「健康で文化的な最低限の生活」を送れりゃそれに越したことはないんだけど、でも実際問題、弱者救済のために割ける人的資源は限られてんじゃん。なら、誰を優先的に救済するかって問題は当然生じる筈でしょ? 今行政は全ての人間を救済しようと必死な気がするけど、そういう方向性のままだと、結局あらゆる弱者たちに対して不十分な救済が施され続けるだけにしかならないと思うんだよね。

 

 

でもまぁ、今の社会の動きを見ると、「社会的弱者」であるLGBTへの救済についてはやたらめったら叫ばれてる気はする。それによって当事者たち自身「もうやめてくれ」って思ってる人も多いし、マジョリティの側からも「あぁ、またあのホモ共が騒いでるよ」「自分たちだけ妙な特権を享受しやがって。ふざけんなよ」なんて批判……というかヘイトを招く事にも繋がる。社会的にはLGBTフレンドリーな方向に進んでるけど、そういう個々人の感情に着目してみると、寧ろ非当事者との溝を広げる結果にしかなっていないようで怖い。若者にはそういう傾向は少ないけど、中年以上になると、そういった傾向は顕著になっているように思える。これはあくまで体感的なものだけど。

 

 

それに、LGBTムーブメントの方向性自体何かよく分かんないんだよね。「差別が、差別が」って、ところであなたたちが言いたい差別って具体的に何な訳?? 同性間パートナーシップをして「よくやった」ってメディアなんかに持て囃されて、でもそれってそんなに緊急性のあるものなの??

 

 

それより、もっと早急に解決するべき問題があるじゃん

 

 

例えば、就活。特に、トランスの私はマトモに就活できるかさえよく分からない。今は大学生だからあまり社会的な不利益とか感じてないけど、卒業して社会にでるとどういう負担がぐわぁーっと襲い掛かってきそうで非常に憂鬱だ。

 

 

でも、そんな私であっても、「学歴」という面で見たら、慶應に通学している私は十分に「強者」じゃない??

 

 

それで私、思ったんだよね。「弱者って、一体何なんだろうな」って。弱者救済云々にしろ、そもそも弱者という概念がどうにもフワッとしてるから、対象を具体的に定めようにもどうしたらいいか分からない。LGBTや障碍者は、言葉は悪いかもしれないけど「分かりやすい弱者」だし、だからこそあんなにしょっちゅう題材にされるんだろうけど、でもそういう人間って「弱者」の中でほんの一部でしかないじゃん。そこをきちっと規定しとかないと、支援にしろ何にしろ、対応にどうしても難が生じてしまうんじゃないの??

 

 

そんな折に見つけたのが、この本。

 

「弱者」とはだれか (PHP新書)

「弱者」とはだれか (PHP新書)

 

 

弱者とはだれか。この本を発見したとき、まさに今の私の疑問そのままの題名で「おおっ」となった。書かれていた内容は、主に「弱者の聖化」と「弱者の相対化」について。弱者の聖化に関しては文字面から意味が想像しづらいと思うので、先ずはその意味について簡単に説明しておこう。

 

 

弱者の聖化という概念は多分筆者の小浜さん独自のものだと思うけど、平たく言えば「弱者の”弱”の部分をやたらと持ち上げて尊いものとして扱う」こと。筆者はこれを「内部からの聖化」と「外部からの聖化」の二つに分類していた。「内部からの聖化」については、ゲイ・プライドなんかがまさにそうだよね。今まで悪いものとして虐げられた自身の同性愛という指向を、誇りとして捉え直すこと。これは、まさにゲイとしての自分を「聖化」する行為だ。私はゲイ・プライドに対しては懐疑的な立場だけど(だって、自分の個性の一つではしかない同性愛性だけを切り取って誇張するのっておかしくない?? ていうか、そういう指向って断じて誇るようなものでもなくない??)、私自身「メンヘラ」について似たような事をやっているので、人の事言えねーなと思う……。

 

 

そして、「外部からの聖化の代表例として挙げられるのが、本の中でも取り上げられていた24時間テレビ。この中のコーナーの一つに、全盲発達障害などのハンディキャップを持った人間に何かを挑戦させて、彼らが奮闘する様を放送して視聴者を感動させようとするものがある。最近では「感動ポルノ」として叩かれる事も多いし、まるで芸をするアザラシとそれを見て喜ぶ観客みたいな構図に見えて私も嫌いだ。筆者自身、文中で「普段は異物として排除している障碍者に、自分たち”健常者”と同じような行動を完遂させることで、障碍者を自分たちの仲間として迎え入れようとする」ものだと指摘し、このような風潮に懐疑的な見方を示していた。

 

 

んで、本題。

 

 

弱者の聖化についてざっと説明してみたけど、前提として、それを実行に移すためには対象となる人間を弱者として認定していなければならない24時間テレビ障碍者を出演させるにあたって、まぁその是非云々は置いといて、そもそも「障碍者=弱者」という等式が自明のものとして認識されているという事実がある。

 

 

障碍者を弱者として扱う事が当たり前になっていて、彼らを哀れむべきものだと考える事に何の罪悪感も抱かない。

 

 

でも、果たしてそれでいいのだろうか?

 

 

私は、こうやって特定の人間たちを弱者としてカテゴライズしてしまう事は非常に危険だと思っている。なぜなら、そうする事で、自分と「カテゴライズされた弱者」が全く別の存在であるという意識が生まれてしまうからだ。

 

 

世間的に言われる「差別」って「相手を故意に貶める、或いは貶すような行為」だと思われがちだけど、逆に「相手に必要以上の配慮を与える」事だって差別だと思うんだよね、私。

 

 

なんて言うと「じゃあボランティアすら差別だって言うのか」とか罵られそうだけど、私が思うに、ボランティアに精を出す人ってそもそも相手を「弱者」だなんて考えてないんだよね。そんな安易なカテゴライズに走らずに、相手をする人間一人一人を、自分たちと同じ存在、仲間として扱っている気がする。

 

 

ボランティアを「偽善だ」とか言って批判する人もいるけど、そういう人って助けを求める人を総じて「弱者」として片付けてしまって、一人一人を自分たちと同じ人間として認識する気がないんだろうなぁと思う。「現実的にボランティアの手が行き届く人間は助けを求めている人間の中のほんの一部でしかない以上、ボランティアは弱者間の差別を生むだけだ」なんて言う人もいるみたいだけど、折角生み出せる幸せがあるのに何もしないのはどう考えても勿体なさ過ぎるし、社会全体で見ても幸福の総和は増える訳だから、それを批判するのはどうなのかなぁと思う。つーか自分が救われたいのに救われないから駄々こねてるだけでしょあいつら。

 

 

私が言う「必要以上の配慮」っていうのは、最近で言うと大阪市の多目的トイレに付けられたレインボーマークとか? ちょっと前に大阪市が区役所なんかの多目的トイレに「LGBTが使いやすいように」とか言ってレインボーマークをつけた末、当事者からの批判を受けてマークを剥がしたという事件(笑)があったんだよね。あれは端的に言って大阪市側がアホ過ぎた。「当事者に配慮」をとか言って格別の配慮が賜られた末空回りした結果がアレだ。配慮とか言って結果的にLGBTを区別する結果にしかなってねーじゃん。そんなトイレに入ったりしたら、周りの人間から「あっ…(察し)」みたいな目で見られる事は容易に推察出来るだろ。つーか、元々誰にも使えるトイレを「LGBT専用」みたいにして一体何がしたいの? そもそもT以外が多目的トイレを使う意味が分かんねーし。

 

 

ロクに理解もねー癖に、支持集めだけのためにやっちゃったのが裏目に出た事件ですな。マジで他人事だとしか思ってねーんでろうな、LGBTなんて……。

 

 

……なんて、こういう「自己満足のための救済」って、余計に差別意識を高めるだけだと思うんだよね。

 

 

あと、最近よく話題になってて、且つこの本の中でも言及されていたのが優先席。筆者曰く、「私はこれが出現したときにかなりの違和感を抱いた」らしい。私にとっては当たり前のものでしか無かったけど、嘗てこれが出来た時は頻繁に議論の的になっていたらしい。

 

 

人によって意見は違うと思うが、私は絶対に優先席に座らないようにしている。理由は単純で、下手に座ると変なおじさんに絡まれそうで怖いから。以前に電車の中で優先席に座る若者を怒鳴りつけるサラリーマンを何度か見た事があって、私はその様子を「そこまで言う事なのか……?」と思いながら遠巻きに見つめていた。多分、彼によって優先席は文字通り「高齢者・障害者・けが人・体調不良者・妊婦・乳幼児連れ」の為の座席であって、それ以外の人間が座ってはならない神聖不可侵な場所なのだろう。

 

 

まぁ「体調不良で優先席に座っていたら老人に怒鳴られた女子高生の話」なんかが話題に出るとみんな寄ってたかって批判するけど、でも誰が「優先席に座るべき弱者」なのかなんて、傍目見ただけじゃ全然分からないと思うんだよね。松葉杖ついてる人なんかだとすぐ分かるけど、その女子高生だって見た目はごく普通の子だった筈だし。だからと言って「優先席で優先されるべき弱者に全て特定のマークを身につけさせる」なんて事やったら、当事者たちがいっつも弱者のレッテルを身に纏う事になって要らん差別を生むだろうし。

 

 

なら、どうやったらこういうトラブルは防げるんだろうね。

 

 

結局さぁ、ここで問題なのって、一部の人間にとって優先席が事実上「弱者的な弱者のための専用席」になってる事だと思うんだ。私がかつて見たおじさんは「自分で恣意的にカテゴライズした弱者を一方的に救われるべき存在だと思い込んでる自己満型人間」だろうし、女子高生を怒鳴った老人って「自分をか弱い老人という弱者として聖化し恰も自分の事を救われるべき特権階級にいるかのように思い込んでる人間」になっちゃってる。

 

 

こういう人間は一部の例外だけど、でもその他の人間だって「お年寄りは優先席に座れ」とか「優先席に座っちゃダメなんだよな、俺は老人たちとは違って弱者じゃねーから」みたいな意識は多かれ少なかれあると思う。そういう意識を植え付けてしまったという面では、優先席は確実に社会に対して悪影響を及ぼしてしまったのではないかなと思う。

 

 

結局優先席ってあくまで「優先」であって、「専用」ではないからね?? ていうか、普通の席だってあくまで「高齢者・障害者・けが人・体調不良者・妊婦・乳幼児連れなど」を優先すべきものなんだし、そう考えたら優先席の存在意義ってなくない??

 

 

……なんて思ってたけど、嘗て私と同じようなことを考えた阪急が優先席を敢えて作らなかったら、席を譲らない人が多すぎて苦情が殺到し、結局優先席を作った、なんてことがあったようだ。現実問題、日本人の寛容性にはかなりの問題があるようだ。うーん……。

 

 

ちなみに、本文中で、作者は私とは少し違った意見から優先席を批判していたので、そっちも引用しておこうと思う(但し文は要約している)。

 

 

多くの人が立っているのに、優先席だけは空いているという状況がしばしば見られるのは、優先席に座ることで、その該当者が乗り込んできたときに規則に従って立ち退かなくてはからない心理的負担を、予め避けようとしているからだ。それにより、却って人は「弱者」との接触を避ける事になり、「弱者」とどう関わるかという問題を自分で考えたり自らの意思で行動するきっかけを失うことになる。(中略)つまり「優先席」の存在そのものが、自然な同情や親切心の発露を封じ込め、代わりに気後れやこわばりの意識を誘発しているのだ。

 

 

「自然な同情や親切心の発露」がそもそも封じ込められるほど存在していない現状、優先席廃止は夢のまた夢だし、結局女性専用車両みたく分離に走るのが一番無難なのかなぁ……。そんな社会でいいのかとは思うけど。

 

 

結局、弱者について考える上で大事なのは、「何を以て弱者とするかは、その背景にある価値観や文化規範によって異なる」って事だ。今はどう考えても差別だと言われてる事はちょっと昔までは当たり前の事だったかも知れないし、何を以て弱者とするかは社会の文脈次第で当然異なってくる。そして、弱者と強者のボーダーラインは酷く曖昧で、個々人によってどこにそれを持ってくるか全然違うでしょ。

 

 

それに、今の自分が、例えば財力の面で強者であると断言できるような状況にあるとしても、いつその状況が一変して弱者になり果てるか分からない。今自分がいる強者という地位は絶対ではないから、巷に溢れている弱者たちの叫びを、自分には関係ないものとして無視することは出来ないはずだ。無視できる人間は、よっぽど頭がおめでたい人間だけだろう。

 

 

みんな、不安なのだろう。自分の今の立場から転落してしまうことが。自分が「弱者」であると見做されてしまうことが。

 

 

その結果、人々は「弱者のカテゴライズ」や「内部(というか自分)からの弱者の聖化」に走ってしまっているのだと思う。

 

 

「弱者のカテゴライズ」は、多くの場合それを行うと同時に自己を「非弱者」として定義することをも意味する。「自分より弱いやつらがいるんだから、俺はまだ弱者ではない」という理屈だ。江戸時代に徳川幕府が行った「えた・ひにん」という被差別身分の制定と構図自体は同じだろう。まぁ自分より下の人間を作り出して相対的に自己の価値を押し上げるという行為は広く見られるものではあるけど

 

 

ちなみに、弱者のカテゴライズの際に自分をも弱者の範疇に含めた場合、それは「自分を弱者として聖化する」……言い換えると「自分は弱者であるというアイデンティティを持つ」事になる(逆に言えば、自分を弱者として規定する為には、弱者のカテゴライズが不可欠になる)。それは結局、予め自分を更なる強者となるための競争から退かせる事に繋がるだろう。初めから自分が弱者だって事にしておけば、「いつか弱者になるかも」なんて恐怖なんて感じずに済むだろうし。

 

 

それに、自分を弱者という「救われる側の存在」にしてしまうのはとても気楽なものなのだ。そうすれば、私たちはただ世の中に対して救済を叫ぶだけでいい。または、弱者という地位に安住して、生きにくい世の中に喘ぐ他の人間たちを外から嘲笑っておけばいい。

 

 

私が自分の事を頻りに「メンヘラ」とか「ニューハーフ」とか言って自虐するのは、自分を貶める事によって、そういったメリットが得られるからだ。まぁ、一番大きい理由は単に「自分をネタにする際に便利なツールだから」だけど。

 

 

さて、結論に移ろう。

 

 

結局言いたいのは、絶対的弱者なんて存在はないという事だ。私たちが弱者と呼ぶのは、「ある観点から見た時に相対的に劣った人間」、または「政治などに於いて便宜上作り出された存在」でしかない。鎌状赤血球症は酸素の運搬という点から見れば障害でしかないけど、マラリアへの罹患率という点から見れば大きなメリットになっている。まぁ別に全ての障害にメリットがあるとまでは言わないけど、その障害がいついかなる場合でも「障害」としてその人を苛めると考えるのは余りにも危険だと思う。

 

 

この件に関しては、数年前に話題になった面白い記事があるので、ついでに紹介しておこう。

 

 

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

 

 

だからさぁ。弱者として扱われるべき人間なんて居ない訳。だから、先ずはそういう安易なカテゴライズから自分の意識を解き放とうぜ??

 

 

勿論、政治その他で弱者という概念を「仮定」しなければならない時はあるだろうけど、せめて私たちが人を判断する時だけは、「弱者」とかいう概念を持ち出すのはやめような。自分の前にいるのは、自分と同じ人間、それ以上でも以下でもねーんだよ。

 

 

目の前に困ってる人間がいたら、ただ助けてやりゃーいーじゃん。別に相手を弱者認定する必要なんて何処にもねーだろ?? 「弱者救済」なんて事は行政だけが言ってればいいんだよ。私たちがやるとすれば、それはただの「救済」だ。

 

 

人間は酷く不平等だし、私らが生まれ持った属性自体は決して変えることは出来ねぇ。私が持って生まれた「男」とか、「日本人」とかいう、カテゴライズを経ずとも有している「属性」を変更することは不可能だ。ただ、「弱者」という概念は、そういう「属性」なんかとは違って、酷く主観的なモンなんだよ。今回はそれが言いたかっただけだ。

 

 

記事が遅れて申し訳ない。私も愈々五月病に入り始めて、頭を使う行為が困難になってきたのだ。記事は書き続けるけど、こんな観念的な話題を出すことは暫くないと思う……多分。

 

 

次は、私の趣味についてちょっと語ってみようかと思っている。

 

 

皆さまの人生が、少しでも楽しいものにならんことを。

 

 

では、また。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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