エピクロスの楽園

折角の人生、楽しく生きようぜ??

社会正義の行く末 ~差別解放運動とエゴイズムの狭間で~

最近、私の大学の講義で、差別に関する講演が何回かに亘って行われた。具体的な内容としては、LGBTとか、ヘイトスピーチとか、あとは部落差別といったものだ。その中で一つ、私がどうしても腑に落ちない話があったので、先ずそれを紹介してみようと思う。

 

 

それは、とある部落出身者の老人の話だった。彼は悩みに悩んだ挙句、長年の友人に自分が部落の出身であることを打ち明けたらしい。すると、彼の友人はこのように答えたそうだ。「あ、そう。でも俺はそんなの気にしないよ! 部落だろうが何だろうが、お前はお前なんだしな」

 

 

さて、この返答を受けた老人の反応は、一体どのようなものだったのだろうか。友人が自分を温かく受け入れてくれたと喜んだのだろうか。

 

 

ーー否。彼は、その返答を受けて「愕然とした」のだそうだ。それはなぜか。

 

 

講師の方はその返答を生徒に求め、発言した生徒は「一生懸命悩んだことに対してまともに取り合ってくれなくかったではないか」とか何とか言っていた気がするが、私は恐らく、彼は自分が部落出身であることをアイデンティティにしており、あくまで「部落出身者としての自分」を肯定して欲しかったからではないかと推測する。良くも悪くも彼にとって部落差別は余りにも身近で、自分を構成する要素として不可欠なものだったのだろう。だから彼は「部落差別は別に気にするような事でもない」という友人の発言に、自分を蔑ろにされたような気になって落ち込んだのではないかと思う。

 

 

ならば、彼の友人は、彼にどんな言葉を返すべきだったのだろうか。

 

 

なんて言いはしたけど、仮に私が彼の友人だったとしても同じような事言うだろうな。講師が見せたアンケートの結果だって半分ぐらいの子が「そんなん知るか」みてーな反応だったし、寧ろその友人ってかなりデキた答えを返した方じゃね?? つーかいきなりそんな話題を切り出されたところで戸惑っちまうだろうし、何つー返答をすりゃいいのか全く分かんねーのが普通だろうに。だから結局「でも、俺は気にしないよ」みてーな返答を帰すのが一番無難だし、仮に期待されてる返答が分かったところで、私ならめんどいから「あ、そう」の一言で終わらせそうだわ。

 

 

いやだって、この老人余りに虫が良すぎね?? まさに最近話題の「忖度」じゃんこれ、「私が望むベストな答えを忖度して言え、でないと儂は怒る」みたいなさ。「お客様は神様なんだぞ、ちゃんと儂が何をして欲しがっているか推理して接客しろ」なんて無茶ぶりと全く同じ。単なる甘え。自分の為に世界が回るべきだと思い込んでいる哀れな大人たち。

 

 

現在の日本に蔓延している風潮がまさにコレだ。差別解放を叫ぶ事自体はいいんだけど、それが行き過ぎて「私たちは”特別”なんだから、もっと尊重しろ、理解しろ」みたいな方向へと舵が切られている場面が多々ある。前回紹介した「内側からの聖化」が正当化され、現実に持ち込まれた格好の例である。そこまで行ってしまうと、「差別解放」として始まった筈の運動は当初の意義を失い、単に自分たちのエゴイズムを押し通すだけのはた迷惑な団体に成り下がってしまう。

 

 

「お客様は神様」という建前のもとで店側に対する自身の立場を絶対化し、「被差別者」という肩書さえあれば、自分のエゴがどこまでも許容されると勘違いしてしまっている。

 

 

勿論、ここまで極端な人間は全体の中でほんの一部の人間であるという事は重々承知している。ただ、社会において目立ってしまうのは、大多数の穏健な人々より、このような過激な人間たちになってしまうのだから始末に負えない。所謂ノイジーマイノリティーというやつだ。結果、ノイジーマイノリティーの主張が全体としての主張にすり替わり、当事者たち自体が世間から白眼視されるようになってしまう。マジョリティはマイノリティの主張に共感するのは難しいから、そのような目立つ主張を聞いて「へぇ、あいつらはそういう奴らなんだな」なんて思ってしまっても仕方ない。仕方はないのだが、だからってこんな状況が許容できる訳ねーじゃん!!

 

 

そもそも「マイノリティー=特別」だと思っている人間の何と多いことか。マイノリティーであることを長所として誇るような風潮。中には自ら進んでマイノリティーになろうとする人間すらいる。いや別にいいんだけどさ、勝手にマイノリティーとしてアイデンティティを確立してもらっても。でもさぁ、そもそもマイノリティーは世間に白眼視されて然るべき存在であるって事を忘れないで欲しいんだよね。

 

 

男である事が嫌だから性転換しようとか、見た目は男なのに女として生きたいとか、はっきり言って気持ち悪いでしょ?? 私も自分が気持ち悪いよ。私だって、本当になりたい自分に生まれ変われると思って女性ホルモンとか飲み始めた訳じゃないけど、それでも自分の顔が無性におぞましく感じる時がある(それでも昔よりはマシになってんだけどさ)。多分、他のトランスジェンダーだってそうなんじゃないかなと思う。界隈では完パス(完全に女として見られ得る外見のこと)だのノンパスだのよく言われるけど、そんだけ外見を神経質なまでに気にしながら生きてんだよ、私らって。

 

 

 でも、だからって「私たちを白眼視するな、嫌悪するな」なんて言っても仕方なくない?? だってどう考えても奇妙な外見してるでしょ、私らって。だから「うわ、何だ、あいつ……」みたいな目で見られるのも当然だし、それが嫌ならトランスなんてすんじゃねーよ。まぁ「どうしてもトランスに踏み切らざるを得なかった」っていう気持ちもよくわかるけどさ、トランスすれば少しは楽になるとかいう期待は捨てるべきだぜ。寧ろそちらの方が茨の道になる可能性も考慮しなきゃな。そして、これから自らが立たされるであろう苦境に立ち向かう覚悟ができて初めて治療を開始する「資格」が得られるのだ。その覚悟すら出来てねぇトランス共に差別を語る資格はねぇ。

 

 

……私自身、すれ違いざまに「あれ、あいつってオネェじゃね?w」とか吐き捨てられた時は素直に傷付いたよ。でも実際自分を鏡で見たら……ね。まぁせめてそういう事思ったとしても口に出さないで欲しいとは思うけどさ。目線は、まぁ……仕方ないとして。

 

 

そういえば、最近そんな言葉を吐かれることって殆ど無くなったけど、私もそろそろ性別不明として違和感のない容姿になってきたって事だろうか。でも初めて会う人には大抵可愛い男の子って言われるしな……この前一緒にカラオケ行った腐女子なんて私の事王子様呼ばわりしてたし……

 

 

「ねぇ、何で男装してるの??」と初対面の人間に言われてしまうくらいのレベルになりたいのだが……無理か。はぁ、整形したい……

 

 

完全に余談だが、椿屋四重奏というアーティストが「いばらのみち」という曲を演奏している。ここまで記事を読んで下さった皆さんは、この曲を聴いて一休みして頂けたらと。

 

 

youtu.be

 

 

さて。

 

 

こないだ、とある掲示板で「LGBT否認の権利」という語句を見つけた。「LGBTが自分たちの権利を主張するなら、俺らにだって奴らを否認する権利があるだろう」というのが彼らの言い分だ。まぁどうせLGBTをどうにかして否定しようとして理論武装しただけなんだろうけど、それでも彼らの主張には一理あるなと思ったものだ。

 

 

話は変わるが、私は比較的最近まで「人は生まれながらにして自由なのだから、人を殺すことだって自由なのであり、でも仮にその罪を犯した場合、法によってそれが悪だと規定されているから相応の代償を払う必要がある」、つまり「代償さえ払う覚悟があれば人を殺してもよい」のだと本気で思っていた。中二病真っ盛りの頃に人殺しを正当化しようと考え出した詭弁である。でもよく考えたら、殺される側の人間だって生存権という権利を有している訳で。結局、この「殺し、殺される」という関係は権利と権利の衝突として置き換えられるのだ。但しこの場合、どう考えても凶器を持っている側が有利なので、結局殺す側の権利が「優遇」される結果になり、生存権はロクに発揮されないまま棄却されてしまうことの方が多い。なら、どうすればこの両者を公平なものとして扱えるかと考えた時、この衝突の勝敗を司法に委ねて「原告は被告を殺すことに正当性はあるか、否か」みたいなことを判断して貰う、なんて思いついたところで私は馬鹿らしくなって考える事を止めた。結局、「悪いものは悪い」として片付けるのが一番楽なんだよなぁ。

 

 

長々と話したけれど、私がこの例を使って言いたいのは「一方の人間が自分の権利を主張する場合、大抵他方の人間が有している権利にまで意識が及んでおらず、結果相手の権利を逆に侵害してしまう事もありうる」という事である。今の弱者救済に対する法案って、一方の人間の主張を唯々諾々と聞き入れて制定されてるやつが多いと思う。だから、その他の人間が「俺たちの権利が侵害されている」と憤るのもまぁ仕方ないのかなって。一方の主張のみが無批判に受け入れられる程世間は寛容ではないのだから。勿論事実として差別……というか法律や政策において明らかな不合理を被っている現状ではそれらを改善する為に運動を続けてゆく必要はあるだろうけど、そんな具体的な目的を言わずに「差別を解放しろ」とだけ声高に叫ぶだけで自分たちは受け入れられるという楽観的な考えは、まさに愚の骨頂であると思う。

 

 

寛容のパラドックス、という概念がある。これは簡単に言えば、「寛容になるためには不寛容な人間の存在が不可欠である」というものだ。もしこの世の人間が全て寛容であるならば、わざわざ寛容さを示す対象が無くなるため、寛容という概念そのものが存在しなくなる。これを発展させると、「もし不寛容に対してまで寛容であるならば、反社会的な活動を許してしまう結果になり得る」並びに「寛容である事を是とすれば、不寛容な人々に対して不寛容である事をも是とされ得る(そしてこれは明らかに「寛容」の精神に反している)」いう事も言える。前者の例としてオウム真理教による一連の事件、後者の例として現代日本における宗教への白眼視が挙げられると思う。

 

 

寛容のパラドックスについては、なかなか面白い記事があったので、ここで紹介しておこうと思う。記事も然程長くはないので、私の説明じゃ分かりにくいって方はこちらを参考にして頂きたい。

 

 

ピム・フォルタインの示した”寛容のパラドックス” - 西東京日記 IN はてなhttp://d.hatena.ne.jp/morningrain/touch/20030531/p1d.hatena.ne.jp

 

 

この概念をLGBTに当てはめると、次のようになる。

 

 

LGBTが社会に求めるのは寛容さだ。自分たちを性的少数者として承認し諸制度を拡充するという目的を、社会や行政に達成して欲しいという思い。これを「LGBT否認の権利」を以て妨げれば、それは不寛容となる。

 

 

では、LGBT自身はどうなのだろうか? 

 

 

結論から言うと、LGBTは立場的には「不寛容」の側に立っている。だってそもそも、現在の状況に対して不寛容な態度を取ったからこそLGBTムーヴメントなんてものは巻き起こったのだろうし。現実を変えようという試みは、裏返せば現実に対して不寛容である事の証なのだから。だからLGBTムーヴメントは、不寛容(LGBT)に対して社会が寛容になる事で初めて達成されるものなのだ。

 

 

そして忘れてはならないのは、LGBTムーヴメントは不寛容によって成り立っているが為に、しばしば他の不寛容と衝突してしまうということ。例えば、トランスジェンダーのトイレの問題。私は未だに男子トイレを使ってるけど、正直そろそろ男子トイレを使うのも嫌なんだよね。でもかと言って女子トイレを使うだなんてとんでもないし、多目的トイレに行こうとしても、大学や駅だと設置されている箇所が少ないから、結局は男子トイレを使い続けざるを得なくて。

 

 

まぁ私は未だに男として暮らしてるし、男子トイレへの忌避感も然程強くないから良いんだけど、でも中には普段女として生活してて、どうしても女子トイレを使いたいトランスジェンダーもたくさん存在する訳で。そんな時に起こるのが、「女子トイレを使いたいトランスジェンダー」と「トランスとはいえ男に女子トイレを使って欲しくない純女」という対立構造(まぁ最近だとトランスが女子トイレを使う事に寛容な純女も多いけどね、トランスのパス度にもよるだろうけど)。他のサイトだとこれを「トランス=寛容vs純女=不寛容」の対立構造にしてる人もいたけど、私はこれは「不寛容vs不寛容」という対立構造として解釈している。トランスが不寛容なのは、今の「純女しか女子トイレを使ってはならない」という風潮に対してだ。まぁそもそも、寛容な人間が他者に対して寛容さを求める必要なんてないし、寛容vs不寛容だとそもそも対立構造が成立しないしね。

 

 

で、これらの不寛容同士の対立を解消するには、どちらかが相手に対して寛容になるか、或いは双方がある程度相手に対して寛容にならなければならない。私個人としては、トランスが女子トイレを使おうとする場合、最低でも戸籍の性別を女に変え、並びに女として見られる最低限のパス度を有している必要があると思う。その条件を達成して初めてトランスは女子トイレの使用を要請出来るようになるのだ。まぁそれが認められるかどうかは別問題だけど。その要請を認めるか否かは純女の側であって私らではないから、私からは何も言えないなぁ。

 

 

んじゃ、ここまで言った事を纏めてみよう。

 

 

LGBTは社会に対し寛容を求めているが、「自分たちには不寛容の権利がある」と行ってLGBTを跳ね除ける人間もいる。その中には実際に特定のLGBTと対立関係にある人もいれば、単に寛容したくないという人間もいるだろう。更に言えば、「その不寛容は間違っている」と言って反LGBTに寛容を求める寛容な人々(要するにアライ)もいるけど。

 

 

こうして不寛容によって寛容が生じ、不寛容はまた別の不寛容を生み、そして寛容が「寛容である事」を求めてある不寛容を寛容しない、みたいなパラドックスというには少々複雑過ぎる状況が出来上がってしまった。

 

 

なら、この状況は、どうやったら解決出来るのだろうか。

 

 

ここで一つ指摘しておきたいのは、不寛容とは本質的にエゴイスティックなものであるという事だ。ある事柄に対して不寛容な立場を取ることの是非がどうであれ、寛容しない事を選んだ地点でその行動はエゴイズムに由来するものだと言える。また寛容ですらも、他者に寛容を強制した地点でエゴイスティックな性質を帯びる事になる。

 

 

冒頭で部落出身者の老人を「虫がいい」とdisったけど、まぁそもそも何かを主張する事自体エゴイズムの発露ではあるんだよね。ただ、そのエゴに正当性があるか否かって話で。LGBTの運動にしろ、法制度や社会から受けた差別的待遇の改善を求める分には正当性かあるからそのエゴは承認されて然るべきだけど、それが「自らを尊重しろ、理解しろ」みたいなただの我儘になると、その運動は正当性を失って単なるエゴに成り下がる。

 

 

さっきも言ったけど、マイノリティである以上、マジョリティと比べて冷遇されるのは仕方ないんだよ。だからマジョリティと同じだけの待遇を求めるのはナンセンスだ。勿論望んでマイノリティに生まれた訳でもないのに、マイノリティとして生きる事を強いられている人も沢山いるだろう。でも、とても酷な事ではあるけれど、私はそんな方々に対して「諦めろ」と言う他ない。私たちは決してマジョリティにはなれない。それは、胸に刻んでおくべきだと思う。

 

 

現代社会における寛容のパラドックス(と呼べるのか分からないけど。教えて、エラい人)を解決するには、先ずは各々のエゴがどこまで正当性を帯び得るかを明確にする必要があるだろう。例えば、反LGBTが「LGBT否認の権利」を行使しようとする場合、彼らはLGBTを理解しようとしない事や、LGBTの「尊重してアピール」をバッサリと切り捨てる事は許容されて然るべきだ。けれど、彼らに同性間のパートナーシップ協定を否定する権利や、LGBTへの差別「行動」を取る権利は何処にもない。この場合、正当性は明らかにLGBTの側にあるのだから。

 

 

 

こんな感じで逐一その主張が正当か否かを判断していって、もし双方の主張に正当性が認められなかったらそれはグレーゾーンのままでいいだろうし、双方の主張に共に正当性が認められたならば、司法や行政なんかに裁量を委ねてゆくべきだろう。双方がひたすら自分のエゴを押し通そうとした所でどうしようもない。問題を解決する為には双方がある程度「寛容」になる必要がある、なんて私が逐一言わなくても分かると思うけど。

 

 

自らの信念だけを押し通すのは非常に危険だ。自分にとっては正義でも、それが社会正義に反していれば、その正義は何の正当性も持ち得ない。それに、自分の正義に夢中になる余り、他の正義を蔑ろにしてしまう事例は常に見受けられる。

 

 

盲目になるな。常に現実に対してよく目を開き、飛び交う様々な意見に対し常に耳を傾けるのだ。現実は白黒ハッキリつけられる程単純じゃない。かと言って灰色でもない。強いて言えば斑模様だ。白と黒が細かくちりばめられ、所々にグレーなんかも見え隠れしている感じの。

 

 

人間、誰しも自分の我を押し通したいといい欲求はあるだろう。自分を尊重して欲しいという欲望はあるだろう。だが、それを我儘に主張しているだけでは、そこらへんの砂場で穴掘りとかやってる子供と何の変わりもない。お前ら大人なんだから、もっと理知的に考えられるだろう?? 自らの主張のどこまでが正当性の認められるもので、どこからがただの自分の我儘でしかないのか、先ずはよく考えてみて欲しい。もしそれが考えられないのなら、誰か第三者に相談すればいい。或いは敵対している人間たちの意見もちゃんと聞いて、彼らの意見も正しいのではないかと考えてみればいい。

 

 

頑固な人って本当多いんだよなぁ、正論言われても逆ギレするしかできない人。なんであそこまで頑ななんだろう、冗談抜きで脳の器質異常とか起こしているんじゃないかと思う。そういうどうやっても自分の立場を変えようとしない人間が一定数いるから、社会はいつまで経っても足を引っ張られるままなんだよなぁ。もっと寛容になれといいたい。彼らのような、まさに「THE・不寛容」みたいな人間に対してまで寛容になるのは正直アホらしい。

 

 

人間同士の争いは、今後尽きることなく続いてゆくのだろう。それは仕方ない。もう諦めるしかない。正直めっちゃ疲れるけど、私の都合じゃどうしようもねーもんな、これ。いっそこの社会が伊藤計劃の「ハーモニー」で描かれたような自我亡き世界が実現すればいいのに。社会的動物として、高度に発展した自我ほど邪魔なものはない。

 

 

まぁ……。私はこうやって愚痴るしか能のない人間なんだけどさ。結局ありきたりの事しか書けなかった気もするけど、この記事はここらへんで閉じます。前回の記事も含めて、少しでも差別とその解放運動について考えられる手助けになれば幸いです。

 

 

皆さまの人生が、少しでも楽しいものにならんことを。

 

 

では、また。

 

 

 

 

 

P.S.ーー 折角なので、伊藤計劃の「ハーモニー」のリンクも貼っときます。私が今まで読んだ本の中でも三指に入るほど大好きな小説なので、是非読んでみて下さい。

 

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

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