エピクロスの楽園

折角の人生、楽しく生きようぜ??

脱・トランス宣言!

女の子になりたい。
そして、可愛い服が着たい。
可愛い服を着て、友達と原宿でクレープを頬張りたい。
そのうちどこかのセレクトショップの店員になって、細々と読者モデルなんかをやってみたい。
女性限定のイベントに参加して、出会った可愛い女の子とノリでホテルに突入したい。
仲のいい友達に恋をして、叶わぬ想いに身を焦がしたい。
そのうち運命の人に出会って、ただ優しく抱き締められたい。
幸せだって、感じたい。
……まぁ、ただの妄想だけどさぁ。
女の子になってしたい事はいっぱいあるけど、今の状態で誰かとどうこうしたいとかは全然思えない。
まぁ寂しいのは寂しいんだけどさぁ、誰も受け入れられないんだよねぇ、卑屈過ぎて。
だから、未だに女の子になる妄想ばかり続けてる。
いつか羽化して、男という殻の中から女としての私が生まれ落ちる日を夢見てる。
もしそうなったら、私は私を好きになれるんだろうか?
私はのびのびと生きてゆく事が出来るんだろうか?
でも、所詮は全部ifの話。
「もしも」を思い描けば描くほど苦しくなる。
だって、私は「男」だから。
私は最初から、なりたい自分には、なれないんだ。


「トランス女性は女性です」、というタグが最近流行っていたようだ。
一部のフェミニストレズビアンのトランス排斥運動に対し、トランスジェンダーが反発したのがきっかけらしい。
まぁその排斥運動のきっかけも、トランスジェンダーを名乗る人々が無理にレズビアン・コミュニティなんかに押し入ろうとしたことが原因のようだけれど。
そんな排斥運動を推し進める人々は「TERF(trans-exclusionary radical feminist)」と呼ばれ、トランスジェンダーの活動家たちの批判の的となっている。
以下のステッカーは、「TERF」と呼ばれている人々のスローガンとなっているステッカーだ。

この運動に対して、私が言える事は一つだ。
「トランス女性は女性ではない」。
特に、性別適合手術前のトランス女性を女性として扱うのは余りにリスクが多過ぎる。
性別適合手術をする気のないトランス」は実在するし、「そんなトランスでも女性として認めよう、それは自己実現の一つだから」みたいな論調もあるらしい。
アホかと言いたい。
ペニスを持った女性がどこにいる。
そもそも、そんな存在を男女二元論の中に位置付けようとする事自体無理がある。
でもまだ、性別適合手術を経て「女性」となったトランス女性に関しては、通常の女性と同様に扱われるのが妥当だと私は思う。
そうでもしないと、GID-MtFは自分と世界に絶望してバタバタ死んでゆきそうだし。
でも、ペニスを取る気がないトランス女性が女性を名乗るのは傲慢以外の何者でもない。
性別適合手術は高いリスクと苦しみを伴うものだけれど、その条件を取り下げると全く区切りがつかなくなる。
……持病その他要因によりそもそも手術が不可能なケースもあるようだが、それでも優遇措置としてハードルを引き下げようとする行為は厳禁だと私は思っている。
残酷だけど。
だって、私たちはどうしようもなく「男」なのだから。
どう足掻いても「女」にはなれないのだから。
本当に女性たちの仲間になりたいなら、最低限の行程は終えておくのは必要条件である。
そのハードルを無視してトランス差別を謳う人間は、害悪以外の何者でもない。
でも、仮に「女性」になった所で、本当に女性として受け入れられるかは別問題なのだ。


もしトランス女性である事を理由に職業その他の待遇で差別されているならば、それは非難して然るべきだ。
だが、もしトランス女性である事を理由に慕う相手との交際を断られた所で、それを「差別」と非難するのはただの馬鹿だ。
思うに、トランスジェンダーたちはこのような区別がついていない人が多過ぎる。
心配になる程思考がねじ曲がった人間も存在していて、そのせいでトランス女性に対する反感が否応無しに増す、という現状もあるようだ。
ただ、まぁ……それも仕方ないのかなぁと思わなくもないのだ。
トランス女性の多くは、自分の身体に対して強い忌避感を抱いている。
身体の性別と心の性別が一致していないのに、自分を肯定など出来る訳がない。
結果、過剰なまでに卑屈なメンヘラが無事爆誕する。
そのような環境の中でねじ曲がるなという方が無理な話なのだ。
私自身とても卑屈な人間だが、ある程度セクマイへの認識が深まった今とは違い、中高年のトランス女性達は、それはそれは強い偏見と戦ってきた事だろう。
若年層である私が、彼女たちの苦難を理解する事は出来ない。
ただ、そのような苦難によって卑屈さと被害妄想に塗れた人格か形成されていったであろう事は想像に難くない。
彼女たちは間違いなく、社会が生んだ被害者だろう。
結局、トランス女性にどこまでの権利を保障するかという問題に対して回答する事は難しい。
女性差別などの問題すらロクに解決されていないのにトランス差別ばかり優遇されるとは何事だ」みたいな意見もあって、確かにそうだなぁと思いもする。
「トランス女性は女性です」。私はこのスローガンに賛成しない。
けれど、「女性として扱われるべきだ」という意見には賛成する。
ただ、トランス女性が明確に女性と別種の身体を保有する以上、全ての場合において完全なる女性として扱われる事は不可能だろうとも思うのだ。
一体どのレベルまで女性として扱われるべきか、詳しく論じる気はないけれど。


そして現在、最も大きな問題となっている(と私は思っている)のが、「トランス女性と変態女装男性との区別」という問題である。
これについては、百田尚樹のこのツイートが有名だろう。


もうアホかと。
お前何でまだTwitterなんてやれてんだと。
はぁ……本当、さっさと消えてしまえばいいのに。
ただ、トランス女性への権利の付与が進められてゆくたびに、「女装して女性用の風呂やトイレに忍び込んでやろうw」みたいな変態が続出しているのもまた事実だ。
実際、本当に女装して風呂に忍び込んだ「自称トランス女性」が幾人も発生してしまっている。
結果、一部のフェミニスト達がトランス女性を滅茶苦茶警戒する事態に発展してしまった。
彼女ら曰く、「トランス女性と女装の変態との区別がつかないから全部警戒するのは当然だし、トランス女性をトイレや風呂に招き入れるなんて論外」だそうだ。
彼女らが男性に対して「どの男性が加害者として牙を剥くから全員に対して恐怖心を抱くし警戒してしまう」と言うのと完全に同じ構図である。
このような意見に対する反論は、トランス女性も男性も「我々全員が犯罪者みたいに扱うな、それはほんの一部だ」というものであり、その反論に対して更に「でもその一部と他大勢なんてパッと見分かんないんだから全員警戒するしかないんだよ」という反論がなされるのが常だ。


……「トランス女性と女装の変態の区別がつかない」なんて随分な言い方だなぁと思うが、この問題をややこしくしているのが、トランス女性のパス度の問題と、トランス女性の中にすら「女湯に入るために女性になった」とか言い放つ連中が沸いている件だ。
既に消した「MtFミソジニー」という記事にも載せてたけど、もう一度あのリンクを貼っておこう。

おかま・おなべ・ニューハーフ板のスレッド | itest.bbspink.com

……ね? 酷いでしょ??
んで、先ずパス度の問題だけど、特にある程度年齢を重ねてから性転換に踏み切ったトランス女性は見た目がほぼ男の場合も多くて、ただの女装男性と見た目の区別がつき辛い可能性があるんだよね。
そんな「ノンパス」と呼ばれるトランス女性が女子トイレや女風呂に入っていると絶対に違和感があるのは確かだが、でも性別適合手術も済ませて「女性」になった彼女らを「あなたは女性じゃないから」と排除するのもどうなのかなぁと個人的には思う。
パス度の高いトランス女性は女湯に入れてもパス度の低いトランス女性は無理という話になると、明らかにルッキズムに関する差別になるし。
けど、女性から見たら「ノンパスのトランス女性と変態女装の区別がつかない」となる訳で。
「なら疑わしい人間を見つけたら逐一股間を確認するのか?w」なんて皮肉混じりに言わりたりする現状。
しかも、「トランス女性」の中に「ただの女好き」がちょくちょく混ざっている。
そいつらは「トランス差別ガー」云々言いながら、合法的に女湯に入ろうと画策している。
そうでなくとも、トランス女性が女湯に入れるか否かという問題は、当事者たちの間でも意見は千差万別だ。
「せめて性別適合手術前なら自粛しろよ」という人もいれば、「別にいいんじゃない? 大して問題起きてないんだし」なんて言う人もいる。
そんな、魑魅魍魎。誰が正義で誰が悪か、最早ぜんぜん分からない。
もうめんどくさい。
とてもめんどくさい。
でも、これが今のトランス界隈の現状なのである。
何が正しいのか?
何が間違いなのか?
当事者たちの思惑が混ざり合い、今日もツイッタランドのバトルは続く。
だから、私は思った。
少しだけ持っていた当事者意識も、ぜんぶ綺麗さっぱり捨て去ってしまった方が楽なんじゃないかって。


私は元々ツイッタランドでのゲリラ戦は傍観するだけで積極的に関わる事は無かったが、もう「トランス」を自称することは金輪際止めようと思う。
傍観はし続けるけど、「自分かトランスジェンダーである」という前提のもと、当事者として何かを発信する事はもうしない。
私はXだ。
何者でもない、Xだ。
Xジェンダー」って本当に便利な概念だよね。
この、「『自分はこういう者である』と名乗っているように見えて、実は何も名乗ってない」という感覚が滅茶苦茶いい。
だから、私はXなのだ。
最近女装したい欲求が滅茶苦茶高まってきて「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ女になりてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇウヒョオォォォォォォォォォォォォォ」って感じなんだけど、まぁXだしね、女装だってするもんね。
Xだもんね。
……え、クドい? ごめんね、みんな。
別にさぁ、女になりたいって事自体はさぁ、なんも悪い事じゃないけどさぁ。
でもさぁ、私らってさぁ、結局どこまで行っても「偽女」なんだよねぇ。
女に似て、女に非ず。
そんな女じゃない身体を引っ提げて「女として生きたい」なんて言えるほど私は図太くない。
私は最初から、「女になりたい」だけなのだ。


ぶっちゃけ、私も「女好きが高じて女性化した」タイプなんじゃないかと思うよ。
女性とセックスしたいという欲求はあった。
でも、生身の女性にその性欲を向けようとすると、途端におぞましくなって無理だった。
下手なエロ漫画みたいな妄想だけで自慰に耽る日々。
「恩返しに来た鶴に誘惑されて云々」みたいなクソみたいな妄想が、中学時代の私のオナネタだった。
全く意味が分からない。
自分という存在が分からない。
そのうち、私はとある女の子に恋をする。
と同時に、私の中から性欲が嘘みたいに消え去った。
男としてその女の子とどうこうしたい、という欲求は一切無かった。
ただ一緒にいたかった。
それだけで、私には十分だったのだ。
多分その時からだろう、私が男性性から乖離し始めたのは。
その後、特に何の進展もなく、私は中学校を卒業。
そして、何をトチ狂ったのか、私は「彼女みたいな女性になりたい」という謎の欲求を抱くようになったのである。


最近、ジェンダーレス女子として有名な中山咲月が、ブログでこんな事を書いていた。

自分にないものを
「羨ましい」「欲しい」と思うから
ないものねだりが存在する

その幼い頃「欲しいな」と思った私は
手に入れようとしたんですよね

それが男性らしい服装や容姿

女性に生まれたから
いいな〜って思えるのだと思います

異性に惹かれるって多分そういう事だと思います
分からないです、これも多分...

そこで自分の気持ちをちゃんと理解していれば
「恋愛」になっていたのだと思うのですが

そこでなぜか私は自分自身でなろうと思ったんですよね
未だに謎です


元男の娘AV女優として名を馳せる大島薫も、前に以下のようなツイートをしていた。


なるほどなるほど、やはり私はどうしようもない女好きなのだな。
それは別に、女性と付き合いたいとか、セックスしたいという好きではない。
何というか、私は女性という存在そのものを愛しているのだ。
現実の女性個人個人には、女性として魅力を感じる事はないけれど。
私が愛しているのは、きっとミロのヴィーナスみたいなものなのだろう。
現状には存在しない、理想化された女性像のものを、私はずっと追い求めている。
そして、そんな自分の理想像を、現実の自分の身体に纏わせようと躍起になっているのだ。


私は酷く自己完結した人間だ。
「人間は足りないものを求めるために恋をする」とい言うけれど、今の私が恋出来ないのは、足りないものを他人で補完せずに、何とか自力で補完しようと躍起になっているからかも知れない。
だから、私が満たされる日は未来永劫来ないだろう。
私の理想は、最初から成立し得ないのだから。
私の憧れの女性像と、私がなりたい自分は完全に一致している。
私の思う価値は全て女性性の中にあり、それ故男としての自分に何の価値も感じない。
寧ろ根強い嫌悪感で気が変になりそうだった。
何でそうなったのかは分からない。
が、その発端が私の唯一の恋にあるのは間違いないと思う。
そもそも、あれが恋だったのかすら定かではないのだけど。
単純に、彼女に抱いた強烈な憧れと同一化願望を、恋だと誤認しただけの可能性もある。
いずれにせよ、私の脱男性化のルーツはそこなのだろう。


元々、私自身がトランス女性と呼ばれる存在であったかは甚だ疑問だ。
だって、私は「ジェンダー」を「トランス」した事は未だ嘗てないのだから。
自分の容姿が変わろうとも、周りから疑いの目線を向けられようとも、私は頑なに「男」というジェンダーを纏い続けている。
仮に自分のジェンダーを「女」に切り替えた所で、いつか自分が「非女」であるとバレるのではないかとビクビクし続けなければならない事は目に見えているからだ。
結局、周りの目線を気にしながらも、恐る恐る男子トイレを使い続ける日々が続いている。
男性としての自分の身体を否定しながらも、ジェンダーまでをも手放す事は出来なかった。
ま、それでもし他の男性に難癖を付けられた所で、自分が男である事を証明するのは簡単だから、私が犯罪者に仕立て上げられる事はないのだし。
いや、実際に難癖をつけられた事はないのだけど。
大抵ビビったような顔で見られるのがオチである。
……上海に旅行に行った時は、現地の人にめっちゃ怒られたけどね。


それでも、私は時折自分の事を「トランス」と自称していた。
その理由は、単純に仲間が欲しかったからだ。
LGBTの一角を占めるトランスジェンダーの仲間入りをして、自分の居場所が欲しかったからだ。
ただ、私の中で自分と「トランス女性」たちとの乖離を感じるようになるにつれ、私は自虐気味に「オカマ」や「ニューハーフ」と名乗るようになった。
今の私を的確に表すには、その名称が端的だし用語の知名度も高いから。
MtF」とか「Xジェンダー」とか、言ってみた所で意味を理解出来る人間は少ないと思うし。
そんな曖昧な状況が続いていたけど、昨今の界隈の状況を見て、私は自分とトランスジェンダリズムを完全に切り離す事を決意した。
で、その決意をキッパリ示すため、この記事をザッと書き上げた訳だ。


私は自分の性自認に拘泥しない。
私は「自我はミームの集合体であり、存在しない幻である」という言論を信じたい。
自分について拘る事自体、私は止めにしたいのだ。
私はただ在るだけだ。
私は今のままでも十分に生きてゆける。
いつまでも未練を引き摺るのは、もう止めにしたい。


私は、女性でもトランス女性でもない。


私はもう、何も語らない。


3/2 追記


まぁ色々書いたけど、多分私は「身体上女性のXジェンダーになりたい」というのが率直な感想なのだと思う。別に女性になったからといって「女の子らしく生きたい」とは毛ほども思っていない。たぶんTwitterで「#男装」とか「中性」みたいなタグ付けて自撮り上げる子たちみたいな感じになると思う。普段はマニッシュな自分を演出していても、たまには本当の女性としてなんの気負いもなく過ごせる彼女たちが、私はとても羨ましい。


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 性同一性障害(MtF・MtX)へ
にほんブログ村

follow us in feedly