エピクロスの楽園

折角の人生、楽しく生きようぜ??

就活のための自己PRの予行練習【書籍 ハーモニー】


(劇場版ハーモニーのポスター)


春は怠い。長過ぎる休みというのも考えもので、張り合いの無くなった日々は私の精神からじわじわ活力を搾り取ってゆくし、ツイッタランドでは春の到来を産む陰キャ達の怨嗟が私のTLを断続的に汚染している。やれやれ、また一年が始まるのか。己が生命を終わらせることの出来ないままに。


なんて反出生主義を免罪符に被害者ぶったフォロワーのツイート群を見て自分を安心させている間にも、時間は容赦なく過ぎてゆき、熾烈な就活イベントはとっくの昔に幕を開けている。まぁ就活なんて面倒っちー事やりたくないのは山々だけど、やらないとどうしようもないんだから仕方ない。別に就活がこれからの人生を送ってゆく上で必須だとは思わないけど、むざむざこのイベントを無視して能動的に可能性を閉ざすのも嫌なので、ある程度の事はやるつもりだ。人生という脚本を名作に押し上げるためにも、今という時間はこの上なく重要なのだし。


……このブログ、元々「折角の人生、楽しまなきゃ損じゃん?」というノリで書き始めた訳なんだけど、今はちょっとだけ私の人生の目的は変わっている。実際人生に楽しい事なんて全然ないし、ていうか楽しい=現実逃避、という側面が私の場合特に強い気がするしね。だから、私は「自分の人生を、いかに面白い脚本として描き出せるか」という方向に目標をシフトした。その為には、私の人生には圧倒的に「経験」が足りていない。


だって普段は引きこもってるか1人でどっかにふらーっと出かけるかの二択だしさ、今。私は小説を書くことが趣味なんだけど、どうしても描くキャラに人間味を持たせられないのが悩みでさー。このブログみたいに何かをつらつらと書き連ねるなら得意(と、自分では思っている)だけど、イチから虚構の人間とその関係性を描き出すには、圧倒的に経験という材料が不足してるんだ。


ま、建前はここまでにして、そろそろ本題に入るとしよう。


就活において、自己PRは最も重要な要素の一つだ。受ける会社の人間に、私という人間を強固に刻み付けること。特に私が志望している出版・マスコミ業界では、その傾向はより顕著だろう。講談社のサイトなんてモロに「とんがり人間あつまれー!」とか書いてあるしね。私もとんがり具合にはそこそこ自信あるけど、完全に社会に不適合な方向に振り切れてるから幾ら個性重視の会社と雖も欲する人材からはズレてるだろうなー……。まぁたとえそうだとしても、自分を取り繕うのが致命的に下手なので素のままの自分をひたすら押し通すつもりだけどさ。


就活とは要するに、私という人間そのものを企業にプレゼンして、自分が企業に必要な存在か否かを判断して貰うというコンセプトのイベントな訳で。もし繕った自分が必要だと判断された所で、素の自分が本当にその企業に合った存在かなんて分かんないしね。別に落とされるなら落とされるでいいから、とにかく半ばゲーム感覚で、この就活コロシアムに望んでゆこうと思う。


今回の記事の趣旨はズバリ、『自分についてひたすら語ってみる事で、自分という存在が何なのか描き出してみよう』、というものだ。企業に向かって自分をアピールなんて言っても、普段全くそのような行為に慣れていない私が面接でぶっつけ本番やろうとしても上手くいく訳がない。所謂オタクと呼ばれる人間には好きな事について語り出すと止まらなくなるタイプも多いっぽいけど、私そんな『オタク特有の早口』なんてスキル持ち合わせてはないし。


便宜上オタクを名乗ってはいるけど、私は彼らみたいに人生を掛けて熱中出来る何かを持ってる訳じゃない。だから、そうやって熱く語ろうとしても全く言葉が出て来ないんだよね。別に趣味が無くて辛いとか言いたい訳じゃないんだよ、ただ私が自分の趣味に邁進出来るほど精神的に余裕がある訳ではないってだけで……


だから、予めここに語るべき言葉を用意しておこうという寸法な訳だ。本番は、ここに貯めておいた燃料に火をつけるだけでいい。そしたら、私の面接も少しはマシになる筈だ。


……面接まで行けるかすら分かんないけどさ!


と、勿体ぶるのもここまでにして、私が今回語りたい趣味をちゃちゃっと発表ちゃおうかね。


私の趣味の一つ。それは、「本」だ。


私は本を書くのも読むのも好きだ。もっと言えば、本棚に厳選した本たちを並べてディスプレイすること自体も好きだ。古本を捲るときに微かに香る髪の匂いが愛しいし、大学なんかに出かける時、取り敢えずコレクションから本を一冊抜き取って鞄に放り込んでおくだけで、なんとなく安心感を抱く。


最近はネット小説を読むことが多いけど、私にとってネット小説はスナック菓子のようなもので、様々な創意工夫が凝らされた本を手に取ってパラパラ捲ること、この体験の代替として使うには余りにチープ過ぎる。


では、本の何がいいのか?


例えば読書の良さについては色んな人が色んな事を言うけど、私は「自分が今俯瞰している現実からトリップ出来る」ことが一番の醍醐味かなと思う。私は小説を読む時、登場人物ではなく物語の世界観そのものと同化して、言わばその世界の『神』として物語を俯瞰するタイプの人間で、だから小説を読み始めると現実感はどんどん遠ざかってゆくし、読了後も意識は本の世界に埋没したままなかなか戻って来れなくなる。その際の忘我の感覚がとても快感なのだ。寧ろその快感を味わいがたいが為に私は本を読むと言ってもいい。


西尾維新入間人間のような作風、或いはNumeri(patoさんが運営している個人サイト。個人的にこのサイトのものより、彼がSPOTで書いてるシベリア鉄道上陸記なんかが好き)等のテキストサイトのような『言葉遊び』を軸にしたものになると、また話は変わってくるけれど。


小説以外、例えば漫画だと、そのトリップ作用は益々強くなる。昔はブックオフで一日中立ち読みして過ごすなんて事もザラだったけど、読み終えて店を出る頃にはもう見事に廃人と化していた。現実感を遥か彼方へと忘れ去ったまま、帰り道を幽鬼のようにふらふら歩く。よく事故に合わなかったものだと今は思う。


一般書だって、私にとっては現実逃避のための道具である事に変わりはない。学術書や新書なんかを読むと色んな知識や知見を得られるけど、それと共に世界に対する『客観性』が徐々に増していって、私の主観が入り込む余地はあんまりなくなる。私は俗世に転がる数多の些事を一時忘れ、ただ思考のみに全神経を集中させることができるのだ。


本の匂いやコレクション欲求云々なついては、「それが性癖だから」とでも言っておくしかないけれど。


そんな本の中でも、私が最も好きな作品が伊藤計劃の「ハーモニー」だ。2015年にはアニメ映画化もされたこの作品の醍醐味は、何と言っててもその『静謐さ』にあると私は思っている。その『静謐さ』について述べる前に、先ずは本作品の概要を記しておこうと思う。ちなみにモロネタバレしてるから、まだ読んでない人はでっかい赤文字の辺りで記事を閉じることをお勧めする。


この小説は、所謂ディストピアモノだ。舞台の時系列は伊藤計劃の前作『虐殺器官』より数十年程後で、『虐殺』により一度世界が滅びかけた後、その反動として過剰なまでに『生命』を尊重するようになった世界を描いている。その世界では、人々は皆"Watch Me"と呼ばれる恒常性管理システム(傷の修復から身体に入り込んだウイルスの駆除まで何でもこなし、体内の状況を常に監視してフィードバックするナノマシン群)をインストール(要するに血管内に流し込む)し、「個人の身体は公共のリソースである」という信念の元、常に健康でいる事を社会に強いられている。


誰も害さなない、当たり障りのない優しい世界。みんなが「公共のリソース」としての自分を慈しみ、必要としてくれる。そこでは個性という概念はほぼ廃れていた。「プライベート」という概念はその意味を変え、その社会ではエッチな(今で言う「秘め事」とニュアンス的には同じだと思う)意味を帯びるようになっていた。


そんな社会に反旗を翻した女の子がいた。それが、この小説における(また今作品の主人公である霧慧トァンにとっての)カリスマ、御冷ミァハであった。彼女は社会に対して漠然と不満を抱えていた主人公、トァンを唆し、豊富な知識と雑学でトァンたちを魅了した後、"Watch Me"をインストールされる前に(このシステムがインストールされるのは成人を迎えてからであり、そのインストールは即ち自分の身体が『公共リソース』となる事を意味していた)、自分が自分であるうちに、自殺を敢行したのだった。健康の対価に自身を人質として差し出す(=自身の情報が常に周囲に晒され、身体の管理を外部の手に委ねることを認める)ことを要求する社会に中指を突き付け、反逆の証として死ぬことを選んだのだった。が、結果的にトァンは自殺に失敗し、首謀者だったミァハだけが死ぬ結果になる。


大人になったトァンは、日本から遠く離れた戦場で、螺旋監察官という権威ある地位を武器に、社会に包摂されつつも、出来る限り『わたし』でいようと抗っていた。その実践は、身体に害を成すものとして禁じられていたアルコールの密輸入であったりと、言ってみれば『せせこましい』ものではあるけれど。

"そう、わたしは何だかんだ言って、自分の生府から、生まれた社会システムから離れることができない。そこからどんなに逃れたいと思っても。その理由は、恐怖。たとえそれをどんなに憎んでいても、自分を見つめるものをすべて失ってしまったら、やっぱりわたしはどうにもならなくなってしまう。"(p.55)

だが、やがてその密輸が上司にバレ、トァンは日本に帰国し謹慎することを命ぜられる。そんな彼女を日本で出迎えたのが、零下堂キアンであった。


キアンは幼少期の頃のトァンの友達で、かつて共に自殺を敢行して死に損なった仲間であった。が、そんな彼女はいつしか『それが間違いであったかのように』普通の女性として成長し、作品の中でも『常識枠』といったテイストが強く、寧ろモブ感すらあった。キャラデザもファンタジー感の強いミァハやトァンとは異なり、黒っぽい髪にボブカットと至極普通だ。そんな彼女は、「自分はミァハのストッパーのつもりだった」、と本文中で語っている。自殺を中止させたのも、実は彼女の差し金だったようだ。


久方振りに会った旧友との食事を楽しんでいたトァンだが、その途中、キアンが自分の喉を食事用のナイフで突き刺して自殺してしまう。唖然とするトァン、騒然となる店内。彼女の最期のセリフは、「うん、ごめんね、ミァハ」という一言だった。


この「ごめんね、ミァハ」という一言は、文中でも度々登場するセリフであり、一人だけ先に死なせてしまったミァハに対するトァンの罪悪感を表象するものであった。大人になった後も夭逝したミァハは主人公の心に残り続け、また本文中でトァンは『ミァハが社会に適合したらなっていたであろう姿』を自分が目指し続けてきた事を告白している。言わば、自分は『御冷ミァハのドッペルゲンガー』なのだ、と。


……はい。ここまで読んだ皆さんは、私が何か言いたいか察しましたね?


……じゃあ、そろそろ溜まった感情を一気に吐露するとしますか。


せーの。


これ、めっちゃ百合じゃねーか!!!!!!!


いやいや待って何、何なのその関係、尊過ぎない?! 死んだ憧れの人がずっと忘れられなくて、自分がそうなろうと努力する??? えっ、トァンその人のことどんだけ想ってんの???? どれだけ一心に想い続ければそんな芸当が可能になるの?????


ていうかこの小説、トァンとミァハの過去のやりとりがいちいちツボ過ぎるのだ。クラスから浮いた変わり者が実はすっごく博識で、漠然と不満だけを抱えていたトァンを見知らぬ知識と時々思わせぶりなやりとりで惹き付けてゆく過程。クライマックスの直前に登場する「焚書」のエピソードは過去の中でもトップクラスに好きだ。


そして何より最高なのが、この小説のラストシーンなのだ。


キアンの自殺と同時刻、実は世界中で他に数千人もの人々が同様に自殺を敢行していた。理由は全く不明だが、その自殺が余りにも唐突であった点は共通していた。それこそ、誰かに『死』への意思を一瞬で植え付けられたかのように。


その後、突如謎のテロ組織が公共の電波をジャックし、「誰か一人以上殺せ、でないとあなたたちを殺す」という趣旨の声明を発表する。多くの人々を自殺へと駆り立てたのは、自分たちの仕業である、と。字面だけ見るとデスゲームの冒頭で主催者の大抵ピエロっぽい風貌をしたパッパラパーがいかにも言いそうなセリフだが、その語り口を聞いて、トァンはこう思うのだ。


「これは、ミァハの言葉だ」と。


トァンは、キアンの最期の言葉を聞いて以来、「もしかしてミァハが生きていて、今回の事件に関わっているのでは……?」という予感に苛まれていた。そしてその声明を受け、予感は確信に変わる。


キアンの死の解明のために始めた調査は、結果的に徐々にミァハへと近づいてゆく結果となった。十三年もの歳月を経て、昔は自分(と死んだキアン)だけの、そして今は多くの人々のカリスマとなったミァハの元へと進むトァン。その過程で次々と判明する事実。疎遠になっていた父(実は"Watch Me"の開発者の一人で、自殺中のミァハを生かしたのも彼。後述するNHNの代表者)との和解と、その死。「殺さないと殺される」というミァハの言葉により世界に狂気が蔓延し、崩壊への足音が徐々に近づく中、硝煙の匂いたなびく争いと旅の果てに、トァンはミァハと再会を果たす。


……あぁ、あのシーンを思い出すだけで涙が出てきた。コーカサスの山の中、ミァハがかつて監禁されていた施設の残骸で。ミァハは戦争孤児だった。ロシアの兵士たちの慰みものとして過ごした幼少期。そこから救出されやってきた日本も、決して楽園などでは無かった。

幸福を目指すか、真理を目指すか。人類は〈大災禍〉のあと幸福を選んだ。まやかしの永遠であることを、自分は進化のその場その場の適応パッチの塊で、継ぎ接ぎの出来損ないな動物であることの否定を選んだ。自然を圧倒すれば、それが得られる。すべて、わたしたちが生きるこの世界のすべてを人工に置換すれば、それが得られる。人類はもう、戻ることのできない一線を越えてしまっていたんだよ」(pp.337)

わたしが十二歳のとき、隣に住んでた男の子が死んだ。この世界を憎んで、この世界に居場所がないって言って、その子は死んでいった。わたしはこのとき思ったの。わたしは人間がどれほど野蛮になれるか知っている。そしていま、逆に人間が野蛮を――自然を抑えつきようとして、どれだけ壊れてくかを知った。(p.340)


この社会が間違っている。ミァハはそう思って、社会への反逆のために死のうとした。だがその後、死の淵から蘇った彼女は、次のような確信を抱くに至る。


『人間は、人間であることをやめたほうがいい』、と。


この本の題名、『ハーモニー』は、この小説の帰結である『全ての人間の自己が消え失せ、社会が一つの個として機能する世界』を表象している。


人間は高度な社会的動物として成熟するに至ったけれど、社会がそのように変わったところで、本能やエゴイズムといった感情が早々に捨てられる筈もない。社会と自己の間で人々は苦しみ、自殺者の数は年々増大していた。だから、その苦しみを全て捨て去ってしまおう。人々の意識ごと消滅させて。そうしたら、きっと多くの人々を救うことが出来るはずだから。


ミァハがテロを起こしたのも、そうやって人々の意識を消す以外に事態を鎮める選択肢を無くすためだった。自分には、実際に人々の意識を消失させる『ボタンを押す』権限は無かったから。

「わたしは愛してる。この世界を全力で愛してる――すべてはこの世界を肯定するため。すべては『わたし』に侵食される世界を救うため」(p.341)

"Watch Me"によって各々の脳に張り巡らされたネットワークを発動させ、人々の脳は完全に統制され、『そもそも思考する必要のない』全てが自明な状態へと変質させる。ミァハはそれを望み、"Watch Me"を研究していた組織《次世代ヒト行動特性記述ネットワーク》、略してNHNから抜け出し、ゲバ組織みたいなのを作り上げた。結局彼女の企みは成功し、後は組織の連中が『ボタンを押す』のを待つばかりという状況。


事態はもう、変えられない。そしてトァン自身も、その状態は確かに望ましいものだと納得する。コーカサスのバンカーで、無邪気にステップを踏むミァハ。「あなたはどう」と尋ねるミァハに対して、トァンが取った選択は、「その未来を認めはするが、ミァハにはその未来を許さない」というものだった。


つまり、トァンはミァハを殺すという決断を下したのだ。


この場面の二人の心情を推測するのは結構骨が折れる。トァンはミァハを殺すことを「復讐のため」と述べていたが、復讐と呼ぶにはこの場面は余りにもカラッとし過ぎている。キアンを殺されたという恨みはあったのだろうが、それだとミァハに銃弾を放った後のトァンの行動に納得がいかない。そんなモヤッとした感情をずっと抱えていたのだが、最近個人のブログで「なるほど!」と思わず快哉を叫びたくなるような解説を発見した。


つまり、トァンがミァハを殺したのは、未練を解消するため、という説だ。


なるほど。確かにこの直前の「焚書」のエピソードでは、十三年前に自殺を前にしたミァハが、生きる未練を消すために、これまで集めてきた本のコレクションをトァンと共に燃やす姿が描かれていた。


たぶん、ミァハを『自分の意思で』撃ったことで、トァンは生きる理由を全て喪ったのだろう。ミァハを撃ったトァンは、本人の希望により、ミァハをバンカーの外へと運び出し、その最期の瞬間を看取る。と同時に、トァンは「わたし」に最後の別れを告げたのだった。

老人たちがそれぞれのコードを入力し、ハーモニー・プログラムが歌い出した瞬間、人類社会から自殺は消滅した。ほぼすべての争いが消滅した。個はもはや単位ではなかった。社会システムこそが単位だった。システムが即ち人間であること、それに苦しみ続けてきた社会は、真の意味での自我や自意識、自己を消し去ることによって、はじめて幸福な完全一致に達した。"(同p.362)


また、何故ミァハはトァンに素直に撃たれたのか、という疑問も残る。私が見たブログには「意識の死も肉体の死も同質のものではないからか」と書かれていたが、たぶんこれは正答ではない。


トァンに撃たれた後、ミァハは「これで――許してくれる……」という呟きを発しているのだ。だからミァハがトァンの父やキアンを殺した事に対して罪悪感を感じているのかなぁとは思ったけど、やっぱり本文で述べてた「仕方なかった」は本心な気がする。トァンは自分以外の人間を心底どうでも思っている人物として描写されてるけど、ミァハもトァンを除けば他人なんてどうでもいいのだと思う。彼女は世界を愛してるとは言ったけど、そこに存在する人間自体を愛してるとは一言も述べていない。ただ、「世界を変えたい」という神にも似た願望を抱いているだけなのだと思う。


その代わりに考えられるのは、単純にミァハはトァンに拒絶されて凹んでいただけなのではないか、という身も蓋もない結論である。


ミァハの『シンパ』であるトァンの目線から物語が描かれているため、ミァハのことはまるで神のように隔絶した存在に思いがちだけど、きっと彼女はそこまで完璧な存在ではない。本文中の端々からも、実は自分勝手で臆病な本来のミァハの姿が透けて見える。


12歳の頃隣の男の子が死んだとき、ミァハは「どうしたらよいのか分からなかった」と言った。そしてどうすればよいのか考えて考えて、この間違っている世界を自分が死ぬことで糾弾しようとする結論に至ったのだと思う。逆に言えば、それ以外に方法が無かったのだ。この世界の仕組みを憎んでどうにかしようとしても、"Watch Me"をインストールされる日は近く、手をこまねいている暇なんて無かったのだから。


また、ミァハは自殺するにあたって、トァンとキアンを巻き込んで、摂取した栄養の吸収を阻害する薬剤の服用により、普段通りの日常生活を送りつつも徐々に死んでゆく、という手段を選んだ。この際、トァンとキアンを巻き込んだ理由について、トァンは本文中でこう述べている。

「ミァハはさ、きっと友だちが欲しかったんじゃなくて、一緒に闘ってくれる人が欲しかったんだよ。戦争はひとりじゃ闘えないから」(p.99)


たぶん、これは真実だと思う。けどそれと共に、自分と同じように生きることに悩む子を救ってあげようというミァハなりの傲慢な気遣いもあったのではないかと思う。自殺の方法については、普通に生きてるように見せかけながら死ぬことによって『普通』に拘る社会を嘲笑してやろうという意思の現れだと思われる。ミァハが12歳の頃に死んだ男の子は首吊りだったらしいけど、それだと社会に対する反逆としては弱いのだと思ったんじゃないかな。それでただのよくある自殺だと処理されるだけなら何の意味もないしね。


ただ、ミァハはこの『自殺』という手段を、十三年後の未来では「わたしは学んだの」とあっさり撤回している。そして「これだ!」と思って喜び勇んで推し進めたハーモニクスという結末を、トァンに「異論は、ない」と納得されつつも「でもお前は許さない」と銃口を向けられ、「わたしのこと、認めてくれないんだ……」とガチ凹みして、ならせめてトァンの未練を解消するために潔く死のうと考えたのではないか。


本文から推察するに、ミァハはトァンが自分を拒絶するとは毛ほども思っていなかったようだ。たぶん子供の頃のように、トァンが自分のことを無条件で信じてくれると「信じて」いたに違いない。


本文を読めば分かるけど、このコーカサスでのシーンでミァハは「子供の頃のままの無邪気な存在」として描かれている。だってあんなシーンでステップとか踏む? 普通。最初はそんなミァハが意味不明で目が点になって、全然シーンに集中出来なかったよ。でも、多分あの場面でミァハがステップを踏み始めたのは、ミァハの無邪気さを強調するためだと思うんだよね。ミァハはトァンが憧れていた昔のまま。トァンだけ成長して立派な姐御になって、それでも超然としたミァハに気圧されて。でもだからこそ、トァンはミァハを殺したし、ミァハは自分が殺されることを予想すらしていなかったのだろう。


というか、だ。


そもそも、何故ミァハは十三年後、回りくどい手段を用いてトァンを自身の元に呼び寄せようとしたのだろう?


「キアンの自殺の謎を解明しているうちに偶然ミァハに行き着いちゃっただけじゃね?」と最初は思ってたけど、考えれば考えるほど、トァンがミァハと再会するように仕向けられていたようにしか思えなくなる。ミァハ本人の手によって。……まぁ、そうだな。「仕向けた」という表現を使うのはちょっと違うかも知れない。そのような土台を作っていたのは確かだけど、別にミァハは何もせず、トァンが自身の元へ辿り着くのを「信じて待っていた」だけなのだから。

きっと来ると思ってた。ここに来てくれるのは、トァンだけだって(p.329)


そもそも、この物語の発端は、ニジェールの戦場で働いていたトァンがアルコールの密輸を上司に咎められ、謹慎として日本へ送り返された事である。が、この上司が実は、ミァハがかつて所属していた組織、NHNの人間である事が発覚。つまり、トァンが日本での謹慎を命じられた事自体、この組織の意向が絡んでいると思われる。


NHNは、自分たちから離脱したゲバ組織の首領、ミァハをおびき出すためにトァンを監視していた。ミァハのゲバ組織は、NHNのドンであるトァンの父をおびき出すために(まぁミァハ本人に対しては「トァンに会いたかった」という側面も強い気がするけど)やはりトァンを捜していた。NHNは上司を通してトァンを観察し、御冷ミァハが接触して来ないか見張っていたけど、いつまで経っても接触してくる気配がないため、変化を齎すためにトァンを日本へと送り返したのではないかと思う。そしてミァハも、トァンが日本
に戻ってくる日を待ち構えていた。


ここでもう一つ、この小説において大きな謎が存在する。それは、


「何故、ミァハはキアンを殺したか?」


というものだ。トァンとの会話の中で、キアンが死んだ理由をミァハは「ランダムに選ばれた結果だ」と答えていた。でも、数十億人にも及ぶ人類の中で殺す数千人を無作為に抽出するとき、まさか偶然キアンが選ばれる可能性がどれ程あろうか? しかも、もしランダムでキアンが選ばれたとしても、殺す人間を一人減らすくらい簡単に出来たはずなのだ。だって、殺す数千人は別に誰でも良かった筈なのだから。ならば、キアンが殺されたのは、ミァハ自身の意志によるものではないか?


その理由として考えられるのは、トァンがミァハの元へと辿り着くための布石とした、というもの。そしてもう一つ、実はミァハはキアンのことを恨んでいたのではないか、というものだ。


トァンとミァハの関係を言語化するには、日本語の語彙は余りに貧弱過ぎる。だから、その関係に密かに百合を感じて悶えていても、無理に「こいつら互いの事が好きなんじゃね?」と決めつけてしまうのはこの歓迎を貶す事になる気がして私は嫌だ。だからアニメを見た時、私はあの描写を見て憤慨したものだけど……まぁその話は後に置いといて。


ただの友情でも恋愛感情でもない、何て言ったらいいか分からない結びつき。ただ、この二人が互いに強く意識し合っていた事だけは疑いの余地がない。ならキアンはどういった立ち位置になるのかと考えると、これがどうも微妙なんだよなぁ。前ちょろっと言ったけど、キアンはどうにも「モブっぽい」。何でミァハとトァンの二人ではなくキアンという三人目が登場したのか、私は最初本気で分からなかった。


ただ、キアンは別に見かけほど優柔不断で気の弱い人間ではなく、意外と芯の強い女性らしいことが後に判明する。だがそれは、キアンがミァハやトァンと同じ「異端」である事を意味する訳ではない。ミァハはキアンも仲間に誘いはしたけど、トァンと比べるとキアンは断然「普通」だった。幼少期は一貫して意思の弱い腰巾着として描かれていて、あまり自分の意思を全面に出している気配がないし、ミァハを喜ばせるような発言もトァンと違って発したような気配がない。そのせいか、ミァハはキアンよりトァンの方に明らかに強く執着しており、キアンは本当にただのおまけのような扱いになってしまっている。ていうかこのキャラ、本当に必要だったの? 実は後付で急遽くっつけられたキャラだったりしない??


なんて考えたりもしてたけど、確か映画のパンフレットだったかな、それとも伊藤計劃トリビュートだっけ? 忘れたけど、計劃氏曰く「ミァハだけではなくトァンも実は浮世離れさた存在なので、常識との接点としてキアンを配置した」みたいな事を言ってた覚えがある。ほう、キアンの常識人ポジは公式設定だったのか! まぁどう見てもそうだよね、うんうん。


で、そうやって露骨にトァンを特別視していたミァハは、たぶんトァンと一緒に死にたかったんじゃないかなぁと思うのだ。何ていうか、心中欲求みたいなものが根底にある気がする。で、それを邪魔したキアンを恨んだと。ミァハがトァンの再会しようとした事自体、その時達成できなかった「心中」を世界を巻き込んで達成しようとした、という文脈が考えられる。


恐らくミァハは、キアンが「ストッパー」を演じようとしていたことには気付いていたのだと思う。トァンに執着し、彼女を疑うという発想すら持っていなかったミァハが、失敗する筈のない自殺が失敗したのは、トァンと一緒に死ねなかったことは、実はキアンに原因があるんじゃないか、と疑っていたとしても何の不思議もない。


ミァハはキアンが自殺する前、キアンにあるメッセージを送っている。そのメッセージの内容は、十三年前語っていた思想と全く同じだった。だが、ミァハは既に自殺ではなく、ハーモニクスにより人間の意識を消失させようという方向にイデオロギーを転換させている。つまり、メッセージでミァハが語ったように、「このカラダは自分ひとりのものだ」と証明するために死んで見せた所で、現在のミァハにとって、それは何ら意味のある行為ではないのだ!


ちなみにキアンの死に対して、トァンとミァハはこのような応酬を繰り広げている。

「キアンは、死ぬ必要がなかった。だからあんなこと、ミァハはキアンに連絡したんでしょ。あなたは死ぬ必要があるなんて」
「……そう、なのかな」
「あなたの『意識』は自己正当化をする必要があった。あのときは。既に決定済みの、止めようがない事象に対して」
「そうなのかな」(p349-350)


私は当初、この場面でミァハは自覚していなかった自分の行動原理を指摘されて、本当に「そうだったのかな……」と考え込んでいるのかと文字通りに解釈した。


ただよく考えてみると、この「そうなのかな」ってかなりミソなんだよなぁ。一言目はちょっと戸惑ったようにぼそぼそ言ってるけど、二言目はちょっと食い気味に反応してる感覚がする。だから、私は思ったのだ。この二言目は、「本当に、そうなのかな」というニュアンスのセリフなんじゃないかって。


そもそも、トァンは鬼の首を取ったようにミァハが連絡した理由を語ってるけど、その指摘が合ってなんて保証は何処にもないじゃん? 実は見当外れの事を自信満々に言ってるだけかも知れないじゃん?……なら、一体どこが?


それが、「既に決定済の、止めようがない事象」の部分なのではないかと私は思う訳さ! 別に止めようがない事象ではなかった筈なんだよ、寧ろ進んでキアンを双曲線的に希死念慮を増大させて自殺へ追い込む人間リストに追加したんだろうし。


……まぁ、この解釈が結構無理矢理な事は自覚しているので、別に与太話程度に留めておいて頂く程度でも十分だと思う。普通に「トァンの指摘は完全に図星であり、キアンに過去の思想を引きずったままのメッセージを送ったのも、意味が無かった彼女の死に必要性を付与するためだった」と思った方が無理がないのは確かだからさ。


……もし生存してたらめっちゃヒロインしてそうだなぁ、キアンさん。何の力もないキアンは完全にトァンによって護られるヒロインポジだし、「一緒にミァハを問いただしに行こう!」なんてトァンの背中を押す役割を担ってそうだ。そしてコーカサスのバンカーにトァンと共に辿り着いたキアンは、待っていたミァハに

「本当なら、わたしあなたを止めなければならなかった。でも、それはもう手遅れだから。わたしはあなたが間違っていると思う、でもあなたはきっと自分の『善』を疑いはしないだろうから。だから、わたしはここで死ぬ。死んで、あなたに『これは間違いだ』って突きつけてあげるの」
とか言って、トァンから拳銃を奪い取って自殺しそうだな。で、ミァハは「キアンは……その道を選んだんだね。とても悲しいけど、あなたが選択しちゃったから、わたしにはもう何も出来ないや」とか言って、トァンは……復讐という動機がないから、結局ミァハと手を取り合うのかなぁ。いずれにせよ、この小説は「ミァハとトァンの物語」から「キアンも含めた三人の物語」へと、その性質を大幅に変えていただろうなぁ。


結局の所どうなのかは読者の解釈次第だけど、「でも読者にとってもミァハにとっても、もしかしたら作者にとっても、キアンが死んでた方が都合が良かったのは確かじゃない?」とだけしつこく述べておいて、この話を終わりにするとしよう。


さて。


……サラッとあらすじを書いてこの本の推しポイントへと話を進めるつもりだったのに、何故か考察に熱が入って無駄に文字数が嵩んでるけど、本題はここからだ。


ここからなのだ。


……この本の一番の醍醐味は『静謐さ』である、と私は冒頭で述べたんだけど、皆さんそれは覚えてるかな? ……うん、覚えてないよね、ごめんね話が長くなって。で、何が静謐なのかという話。


この小説は、結構ハードボイルドだ。だって本の最初の方でRPGぶっ放して敵機撃墜するしトァンの父親は銃撃戦で死ぬし、ていうかトァンの職業の螺旋監察官、仕事内容が『戦争の仲裁』だからね。そりゃー多少過激にはなりますわな。


の割りは、この小説は全く荒々しい印象がない。寧ろ終始、何だか静かで神秘的なヴェールが小説を覆っているように見える。そのヴェールを構成しているのは、キンキンに冷えた絶望だ。


絶望。この小説を一言で表すなら、この二文字が一番適切だろう。それは、登場人物がひたすら惨たらしい境遇に晒されてゆくものでもなく、凄惨でグロテスクな光景が広がるポストアポカリプス的なものとも違う、全てを凍てつかせるような冷たい絶望。言い表すならば、「冬の日薄着で外に出ると、最初は寒いと思えるが、徐々に寒さすら感じなくなって全ての感覚が麻痺してゆく」あの感覚に似ている。


鬱モノ、ディストピアモノと呼ばれる小説は数あれど、私はここまで、最早心地良さすら感じる冷たい絶望を内包した小説を他に知らない。


……御冷ミァハって、本当その「冷たさ」をよく体現した存在だと思うよ。御冷って。


ところで、この小説のキャラって何か名前が妙なんだよね。主要人物の名前を並べると、ミァハ、トァン、キアン。そしてトァンの父親はヌァザ。じゃあ変な名前のキャラしかいないのかと思うと、この4人以外は名前が至って普通だった。キアンも、他3人と比べると比較的普通っぽいように思える。ここでも待遇の差が現れるとは……キアン、可哀想な子。


じゃあ、このメンバーだけ名前が妙なのはどうしてなんだろう?


その理由は分からないけど、その結果起きている現象は明白である。


現実感の喪失だ。


この小説、実は現代日本を極端にしたものなんじゃないかと私は思っている。極端な同調圧力に支配された社会。同質でなければならない、異端者は即排除される。何より優先されるのは患者の生命で、QOL云々を考える前に何があっても生かす事を優先する。それに伴う不登校児、そして自殺者の増加。現実に適合出来ない私たちは、今もぽつぽつ死んでいる。


個人を優先しようとする動きは若者を中心に勃発しているが、依然として中高年層との意識の隔たりは大きく、寧ろ社会の歪みは大きくなる一方な気がする。守ることにしか関心のない老人たち。若者の個は封殺され、次々と列挙される「不健全」に社会は徐々に硬直してゆく。


この小説を書いた当時、伊藤計劃氏は末期のガンに脅かされていた。そんな彼が何を考えていたのは分からないが、自分が身を置かされた医療の現場に何かしらの絶望を感じていたのではないか、と私は思う。この小説は、言わば現代日本の医療と同調圧力に対する痛烈な皮肉なのだ。


もし<大災禍>のような甚大な、それこそ全国民の生命を脅かすような事態が勃発すれば、その反動でこの小説で描かれたような社会が建設されることは充分に考えられる。この小説は、別に有り得ない未来を描いたものだとは思わない。かつてウェルズが記した『タイムマシン』のように、有り得るかもしれない未来を警鐘した小説とも取れる。……これは、私が考え過ぎかも知れないが。


伊藤計劃氏は、『タイムマシン』のようなディストピア小説につきものな「残酷さ」を緩和するために、現実感の薄れたサラッとした雰囲気を作り出すために、わざと主要キャラにあんな名前をつけたのではないかと考えられる。


もちろん、現実感を喪失させるために取られた手段はそれだけではない。「わたし」を始めとしたひらがな表現の多用、繰り返すような文章の頻発。そして何より大きいのが、一目見て「なんか違う!」と分かるhtml形式の利用である。



一ページ目からしてこんなんだ。流石にここまでプログラムっぽさが強いのは冒頭だけだが、本文中でもちょくちょくこうしたhtml形式の文章が現れる。ちなみにこの形式で記された理由はエピローグに書かれてるんだけど、私はよく分からなかったので気になるなら自分で読んでください。


このような工夫を経て、この小説はこれ以上ない程の『静謐さ』で満たされているのだ。


そしてもう一つ、この小説の大きな魅力は、ミァハとトァンのなんか百合っぽい雰囲気だ。まぁ小説での関係は散々語り尽くしたからいいんだけど、アニメ映画において、二人の関係の描写はけっこう変化している。


端的に言うと、明らかに百合度が上がっていた。


小説版でキスシーンは描写されていなかったが、アニメでは明確なキスシーンが追加されるなど、ミァハとトァンの関係はより親密なものへと変換されていた。ここまではまだ許せた。寧ろ「クラスの綺麗な子に弄ばれるウブでボーイッシュな女の子(トァンは子供時代、「THE・ヅカ系女子」みたいな風貌をしている)みたいな雰囲気があって良かったし、別にキスシーンがあったからといって、二人の関係が明確に恋人同士として規定される訳でもない。寧ろまだ未分化な、初々しい恋心ともつかない何かが感じられて悪くはないなーと思っていた。


私の映画への評価を決定したのはラストシーン、トァンがミァハを撃つ瞬間に発したセリフだった。


トァンの選択を許容するように微笑むミァハへ震える手で銃口を向けながら、トァンは確かに言ったのだ。


「愛してるわ、ミァハ」と。


この一言により、曖昧だった二人の関係は、明らかな恋愛関係として還元された。と共に、トァンがミァハを殺す理由も、『(建前上は)復讐』から『愛憎』へと変化したのであった。「昔のあなたを愛していたから今のあなたを許容しない」という、何ともチープ過ぎる理由へと。


私は失望した。これを作った監督は一体何を考えていたのかと憤慨した。この結末に関しては賛否両論あるようだが、私は強硬な否定派である。原作至上主義者だと言われたようが構わない、気に食わないものは気に食わないのだ。


3D技術がどーのーこーのとか、そんな難しいことは私には分からない。まぁ確かに絵的に「あれ?」と思うような部分はあったけど、多少そこに何があろうがいちいち目くじらを立てる気はしない。総合的に見れば、別に悪いとは思わないし。


ただ結末よ、オメーはダメだ。もうトァンがただのヒス女に成り下がってて泣けた。多分あのラストは、監督が監督なりに二人の関係を咀嚼して出した解釈なのだろう。映像作品とはそういうものだと言われてしまえばそれまでの話かもしれない。ただ、私はどうしても気に食わない。それだけの話である。


余りにも長くなったので、そろそろこの記事は締めるとするか。そういえばこれって就活への自己PRのためだとか言って始めたんだっけ? 完全に忘れてたけど、それだけ夢中になれたと思えば企画はちゃんと上手く言ったんだよね。きっと。メイビー。


じゃ、いつものセリフでお別れしましょう。


皆さまの人生が、より楽しいものにならんことを。


では、また。










追伸――最近キェルケゴールの『死に至る病』を読んでいて気になるフレーズを見つけたので、紹介だけしておこうと思う。

"人間は自己であり、精神であるからこそ、絶望することができるのである"

ハーモニーでは幾つかの作品が文中で引用されており、それらの作品の思想の系譜を受け継いでいることが分かるのだが、キェルケゴールに関しては引用されていた覚えがない。が、この表現は、ハーモニーの世界観に対する綺麗なパラドックスだなぁと感心して、ここに掲載することにした。


絶望は、私たちの中に等しく息づいているのだ。私たちが精神である限り。






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