エピクロスの楽園

折角の人生、楽しく生きようぜ??

わたし、この意識


(2019.4.29 綾瀬駅


本文の前に、注記。この記事は1年以上前、完成間近で放棄してた記事だ。でも既に5000字以上使ってイロイロ書き殴ってるから、なんか勿体ないなーと思って今更アップする事にしたのだ。


続き書こうかとも思ったけど、読み返しても当時の私が何考えてたかとか全然分かんないしねぇ……当時大学で「心の哲学」という分野を習って行動主義やネーゲルのコウモリ云々にドップリ嵌り混んでたから、なんか小難しい言葉ちょくちょく出てくるかもしんないけど、ま、気にしないで下さい。


では。





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「わたし」という存在は、この世界で最も身近で不可解な存在だと思う。


私はずっと、私という存在に苦しめられてきた。これはメンヘラあるあるだと思うけど、私はめちゃくちゃ自意識がデカい。寧ろ私の人格は肥大化した自意識によって構成されていると言ってもいい。何をするにも私が第一。自分の事に精一杯で、周りの事なんて気にする余裕が無かった。というか、周りの人間がどうなろうと知ったこっちゃ無かった。


私は自分が世界で一番嫌いだけれど、同時に世界で一番好きでもあるんだ。尊大な自尊心と自己否定に押し潰され、自分がどのように見られているのかという事ばかり過剰なまでに気にしている。特に"性転換治療"が進むにつれ、私が鏡を覗き込む時間はどんどん増えていった。世界の中心は、いつだって私。だって周りの人間なんて誰もかも、私に付随する現象でしかないのだし!


そんな「自分本位、ここに極まれり」みてーなキャラした私だが、その実私という存在が如何に空っぽなのかという事を、最近むざむざと感じ始めた。私の存在を主張しようにも、私には「これがわたしだ!」と声高に叫べるようなシロモノなんててんで持ち合わせていない。性別は未だにどっちつかずだし、虚無に蝕まれ続けるのが嫌で家を飛び出し、テキトーに街をぶらついても、私の心に残るものは皆無だった。私には何もない。私はただ、空っぽな人間だった。


現在主にオモコロというネットメディアで活躍しているブロガーのARuFa氏は、私が最も尊敬している人物の一人だ。次々とアホらしい企画を考え出しては世の中に「オモロ」をぶちまけてゆく彼。そのどこまでもアh……実直なひたむきさと行動力はマジで驚嘆に値する。そんな彼だが、ネットに残される余りに濃すぎる業績の数々とは裏腹に、彼の存在はひたすら虚無であるらしい事が、彼のパートナーであるダ・ヴィンチ・恐山氏らの証言により確認されている。


それを聞いて、私はこう思ったのだ。


「あれ? 私とARuFaさん、似てね?」と。


……いやいや、ちょっと待てと。お前みてーな無名の底辺ブロガーと最早インターネットの神と呼べるARuFa氏が同列に語れる存在な訳ねーだろボケカスがと。恐らくこの記事を読まれている皆さんの大半がそう思われるだろうし私自身もそう思うのだが、虚無を内包した人間がひたすら面白い事をしようと躍起になっている構図自体は私と彼に共通のものだと思う。


んで、私が何を言いたいかと言うと。


私がどれだけ空っぽだろうが、「わたし」という概念が如何に曖昧だろうが、私は何者にもなれるのだという事だ。


昔、イクニ監督の『輪るピングドラム』という作品で「何者にもなれないお前たちに告げる」というセリフを聞いて、私は軽くトラウマになっていた。結局私は要らない人間、本当はブロイラーにかけられて透明になっているべき人間で、この先生きていた所で何にもなれないのではないかという恐怖があった。


何の根拠もなく自分は特別だと思い込んでいた中学時代、だが高校生になりインターネットにドップリ浸かってゆくにつれ、そんなプライドはポッキリ折れ、私は何ら特別な存在ではないと知った。自信があった知能も文章力も、私より優れた人間などごまんといたのだ。その地点で「なにくそ」と努力すれば少しはマシな自分になっていたのかも知れないが、私は自分が必死になっても勝てない人間たちがいるという現実を直視したくなくて、最初から勝負を放棄することを選択してしまった。


努力しても夢が叶わない公算の方が高いなら、最初から諦めてしまった方が楽だった。


こうして幼稚だった私は完膚なまでに破壊され、跡には怠惰に現実を憂い続ける抜け殻だけが残った。


ところで以前、私のTLにこんなツイートが流れてきた。



これを読んで、私が最初に抱いたのは安心感だった。今はまだ空っぽでもいいのだという一種の安寧。空っぽで親や周りの人間に翻弄され続ける今、これは別になんら「悪い」ことではないのだということ。


ちなみに、「自我」という言葉をブリタニカで引くと、次のような説明がなされている。

自我とは,心理学的,倫理的意味では経験的な個体性についての意識をいう。精神分析では現実との間に接触を保ち,イドと超自我とを仲介する意識的なパーソナリティの側面のこと。発達過程でイドより分化し,さらにこの自我より超自我ないし自我理想が分化して成熟の段階に達するとされる。さらに,自己を志向している心理過程をさす。自分自身の興味や資質などにのみかかわり合い (自己中心的) ,もっぱら自分自身の安寧をはかろうとする (利己的) 過程などが含まれる。存在論的意味では経験的自我を構成するところの同時的かつ継続的偶有の基体としての恒久かつ不変の現実存在をいい,論理学的意味では,思考する主体をいうが,この主体の統一性と同一性とは,直観に与えられた多様な所与を総合し,意識のうちに生起する諸表象間の関連を保つための必要条件である。


まーよく分かんねぇ説明だけど、実際、自我ってそういう「よく分かんねぇもの」なんだと思うよ。普通に生きてる分には意識する必要なんてない。それをつらつら考えるのは、哲学屋と私らみてーな物好きだけで充分だ。


私は現在22歳であり、あと1ヶ月ちょっとで年齢が素数に戻る。さっきのツイートを鵜呑みにするなら、私にもあと数年ぐらいで自我が芽生えてくるのかもしれない。ARuFa氏にも、いつか自我が芽生えて「漸く自我が芽生えたので、赤ちゃんになって会社の同僚に全力で誕生を祝ってもらいました」なんて題名のブログ記事を投稿されるかもしれない。もしそういう事態になれば、私も千円くらいは誕生祝いを寄付しておこうと思う。


だから、慌てる事なんて何もないのだ。何も考えずにふらふら生きてれば、そのうち「あ、これが私か」という悟りを自ずから得るのだろうし。





……以上、理想論でお送りしました。





……ここからは、現実の話をします。





でも実際問題、自意識なんて「そんなもん意識しようとしても無駄!」なんて正論で沈静化出来るほど単純なモノじゃ無くない?? そんな簡単にコントロール出来る概念なら、あたしゃこんなに苦労しちゃいねーんだよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


たとえ自分が空っぽだろうが自分が自分で分からなくなってようが、私は肥大化する自意識を止められねーんだ。その自意識が如何に空っぽで実体のないものか知ってても、自意識は依代を求めて流れ出すんだ。自己肯定が出来ないから他者からの肯定を求める……メンヘラは確かにそうだ、一体どのような肯定を求めてるのが自分でも分かってねーのにな(それにメンヘラの承認欲求は常に一方通行だ、自らの献身なんて何も考えちゃいない)。


空っぽな癖に凡庸でいるのが嫌でファッションにも滅茶苦茶神経質になって、情けない自分を覆い隠すためにキャラを装うけど段々自分で自分が分からなくなって暴走し、余計に情けなくなって。もう自分が嫌なのだ。自分の人格を消し去って、他の人格がこの身体を有効活用すればいいのにとずっと思っている。


したい事もないし、なりたい夢もない。もう7月半ばだけど就職先は決まんねーし、てか全てが嫌になって就活自体ほぼ投げ出しちまってる。こんな事書いてるだけでどんどん鬱になってゆくが……


人生楽しそうなやつってさ、きっと何も考えずに済んでんだ。きゃつらは自分の存在についてウジウジ悩む事はねーんだろう。たまに悩むとしても恋とか仕事のやりがいとか、直面した何らかのイベントに対して逐一反応するだけじゃねーの? そもぞ人生そのものを否定したり存在を疑ったりなんて事、彼らは考えもしないだろう。


陽キャ』は私の憧れだ。私も彼らのように人生を謳歌していたかった。でも、私が彼らの真似をしようとしても無理だった。そもそもの土壌が違うのだ、私は私なりの治療法を探せばならない。


どうすれば、私はこの肥大化した自意識から解放されるのか。どうしたら、私は自分についての妄執を捨て、世界をあるがままに楽しめるようになるのか。


そんな折、私は『心の哲学』と呼ばれる学問を知ったのである。















他のメンヘラは知らねーが、少なくとも私は自分の人生を諦める気はない。メンヘラはメンヘラなりの上手い生き方がある筈だと思っている。メンヘラがメンヘラというだけで社会の落伍者と看做されるの余りにも癪だ。私は何者かになりてーんだ。


メンヘラからの脱却を目指す気はあまりない、ぶっちゃけ私はメンヘラである事に価値を見出している。メンヘラにはメンヘラにしか見えない世界がある、そこから脱却してフツーの人間になろうと努力するのは面倒だし、仮に自分がフツーの人間になったところでそんな自分にあまり価値を見出せない。この鬱屈した言語化し難い衝動は、私にとっては宝物なのだ。迎合からは何も生み出せはしないだろう。


で。


メンヘラが真っ当に生きるために一番障害となるのは、恐らくそのデカ過ぎる自意識だ。この自意識を御せない限り、メンヘラが社会に出たところで失敗する。勿論、べつに社会に出たくないならそうすればいいと思う。就活なんかを経て社会人やらなくて済むならそっちの方がよっぽどマシなのは確かだ。私はたぶん無理だが。


「じゃあ、肥大化した自意識を破滅させるにはどうしたらいい?」


以前書いた伊藤計劃の『ハーモニー』の記事で、私はその小説で描かれた『ハーモニクス』という思想について述べた。「全ての人間の意識を消し去り、各々の行動の全てが自明になる(=我々が真に社会の一部品となること)」がその思想の要旨だが、それを知って私は熱狂した。「これぞ、人類の理想だ」と盲信した。


意識の消去。もしそれが可能になれば、私は、そして全ての人類は苦しみから解放される筈だ、と。


それから暫く、私はどうすれば意識から人間を解放出来るのかについて考え続けた。一先ずの結論は、「自他の領域を司る脳細胞領域を破壊すればいいのでは」というものだった。クモ膜下出血により自他の境界がつかなくなり、「漠然とした恍惚」に意識が浸されていたと語る患者の記録がその根拠だった。それを読んだ時、私はこう思ったものだ。「これ、ミァハやん」と。


脳細胞、或いは体内の伝達物質や電気信号は将来意図的にコントロール可能になるだろうと私は予測している。つまりそれは、感情や情動の全てが理性によって従属させられることを意味している。そうなれば、幸せも、喜びも、全て自らの手によって生み出せるようになるだろう。誰の介在も受けなくても。何の原因も無かったとしても。


勿論、仮にそのような状態が叶ったとして、待ち受けているのは虚無だけだろう。だが、安心して欲しい。きっとその頃には、意識なんてオンオフ自由になっているだろうから。


だが、私がやがて物理主義に耽溺してゆくようになるにつれ、私は意識の存在そのものに懐疑的になるようになった。


NOeSIS、というノベルゲームがある。cutlass氏要するサークル、クラシックショコラにより制作されたこのゲームは、内包された様々な医学・物理的な学問の奔流により、高二病時代の私を虜にした。クオリア哲学的ゾンビというカッコいい学問的デコイに言及しては得意になり、それを否定しようなんて発想は毛ほども無かった。


恐らく多数の人々は、物心二元論を無意識に信仰している。デカルトの提唱したその説は、簡単に言えば「身体(物理的な実体)と心(精神)は独立に存在している」というものだ。私も、心の哲学に触れるまで心の存在を無邪気に信じていた。が、やがて独立した「心」の存在を仮定しようとすることがいかに無謀か、という事実に気付く。


性質二元論はこの物心二元論を物理主体に変えられたもので、実体が物理的な性質と心的な性質の両方を帯びている、とする説である。これに類似の概念に心脳同一説があり、これは「心は脳に宿っており、魂は存在しない」とかいうアレだ。前者は物理と非物理の二つの概念を肯定し、後者は心=脳として非物理の存在を否定する。


---to be continued…?---