エピクロスの楽園

折角の人生、楽しく生きようぜ??

解体ショー

マグロ解体ショーに行ってきた。おいしいマグロがオトクに手に入らないかなー、となんとなく思ったからである。

 

開始から2~3分遅れてショーの現場に着くと、そこには既に黒山の人だかりで出来ていた。なんてことない商店街の片隅に3~40人の人間が集り、買い物客たちの流れを澱ませている。こんな調子でよく商店街から苦情来ないなぁ、と私は思った。マグロ解体ショーはだいたい毎週行われている定例行事なのだ。

 

人だかりの真ん中では、解体ショー担当のおじさんが、年季の入ったクソデカ包丁を振るっている。街中でおおっぴらに包丁を出しても通報されない稀有な事例だ。でも、もし彼がうっかり手を滑らせて、その包丁を私に向かってぶん投げてしまったらどうなるだろう。私は思わずそう想像して、足に力を入れた。いつでも真横にジャンプできるようにである。

 

いや待てよ? 私が咄嗟に包丁を避けたら、後ろに立っているおじいさんに包丁が当たってしまうのではないか。その場合、それは私の過失になるのだろうか。まぁ流石に過失になるとは思えないが、仮に自分が包丁を避けたせいでおじいさんが死んでしまった場合、どうせ私の脆いメンタルは耐えられると思えない。では、今肩に提げているトートバッグを盾にして飛んでくる包丁を防ぐしかないのか? でもそれはただ横に飛んで包丁を避けるよりもだいふ難しい芸当ではないか?? そもそもトートバッグで包丁を防げる保証がどこにある!! となると、やはり自分の命は惜しいので、横に飛んで包丁を避けるしかないか……!!!

 

もちろん、包丁は飛んで来なかった。

 

私がありもしない危機に身構えている間も解体ショーはどんどん進行し、台の上にはもう三枚におろされたマグロ肉の塊がでーんと乗っていた。解体ショーのおじさんはなんだかんだと口上を述べながらマグロ肉の塊をいったん脇に起き、背骨をひっぱり出してきた。そして、金属製のスプーンで背骨のすき間をガーリガリ。そう、中落ちを取っているのである。

 

ここで初めて知ったのだが、どうやらすき身と中落ちは別物らしい。解体ショーのおじさんが言うには、背骨からこそげ取ったものを中落ち、そして皮の裏などからこそげ取ったものをすき身と呼んでいるらしい、なら何だ、私は実際は中落ちのこと想像しながら「マグロはすき身が美味いんだよねぇ」などと宣っていた訳か。これでは私が馬鹿みたいではないか。

 

しかし何だ、ショーを見ている観客たちは何も反応しない。解体ショーのおじさんの口上を、腕を組んでただ黙って受け流している。表情すら変わらない。頷きもしない。正直可哀想になってきたので何かリアクションを返してあげたかったが、小心者の私にそのようなアシストができる訳もなかった。

 

許せ、おじさん。

 

観客から目を離しておじさんの方を見ると、私はおじさんの後ろにどかっと置かれているマグロの頭にようやく気付き、ぞっとした。正直身を捌いている間はそんなに意識していなかったが、顔があると途端に「生き物」感が増す。私らは今、生き物の死骸を処理している現場をみんなで見ているのだ、という実感が途端に湧いていきた。よく考えたら何てグロテスクな現場なんだ、マグロ解体ショーは。

 

このマグロにもきっと様々な魚生があったのだろう。漁師に獲られてここに運ばれてくるまで、元気に大海原を泳いでいた筈だ。なのに何故、こんな姿に……

 

そもそも何故マグロだけ解体ショーなどというものが行われているのだろうか。前Twitterて流れてきた漫画に、牛解体ショーを行って通報された男の4コマ漫画が流れてきたことがあった。確かに、もし牛であれば、私以外の大概の人間も「見るに耐えない」と思うだろう。では何故、マグロは解体ショーの題材になるのか。やはり、魚は人間と見た目がかなり違うからか? 同じ生き物なのに??

 

マグロが解体ショーの題材になることが許されるなら、極論人間だって解体ショーの題材として良いのではないか。だって同じ生き物なのだから。勿論これがめちゃくちゃな暴論であることは分かっている。それでも、私は今の人間社会に蔓延している人間至上主義が死ぬほど嫌いなのだ。

 

私は想像してみた。自分の死体が公衆の面前で解体される場面を。勿論、普通に嫌だ。だがこうやって私が解体ショーを見ている以上、私も解体ショーされることを受け入れるべきなのではないか?

 

解体ショーのおじさんはこそげ落とし終わった背骨を乱暴にゴミ箱に投げ入れると、いよいよマグロの頭を手に取った。

 

「ここは刺身にして食べるといいですよー」と言われながらブツ切りにされるエラの辺り。

 

「この頬が貴重なんですよー」という口上と共に削ぎ落とされる頬。

 

しまいには、「煮て食べるとおいしいですよー」なんて言いながら、おじさん目玉を手慣れた様子でくり抜いた。

 

私は、目玉を抜かれた自分な生首を想像した。ダークウェブとやらの掲示板に載ってそうな光景だ。ただ別に解体ショーは猟奇的な目的で行われたものではなく、色々な部位を食材として余すことなく食するための下準備なのだ。

 

私の目玉は煮込むと美味しいだろうか。出来れば和風の味付けがいいなぁ。

 

やがてショーは終わり、観客たち同士の熾烈なじゃんけんバトルが始まった。何故なら中落ちは1人分、カマは2人分の分量しかないからである。私もさっきまでの妄想を引っ込め、熾烈な争いに身を投じた。生き物を殺して喰うことの残虐性は認めつつ、そして自分が他者を殺して喰う勇気もなく、それでも私は食べやすいサイズにカットされた生命を目的に戦いを挑むのだ。なぜなら、おいしいからである。

 

私は生魚を愛している。私の肉体の2割くらいは寿司と刺身で構成されていると言っても過言ではない。1番好きな料理は寿司、2番目に好きな料理は刺身定食と答えるような人間なのだ、私は。だから、私は魚たちの命を奪って生きるのだ。

 

私は魚が可哀想で釣りすら出来ないような人間だが、ベジタリアンではない。なぜならそもそも自分が生きるということは、他の何かを犠牲にするということだと思っているからな。今この文章を徒然なるままにフリック入力している間も、私の自己免疫は体内に入り込んだ細菌たちを殺し続けているだろう。

 

だから、私は他の生命を喰うことを恥じない。自分が生きるために他の生命を犠牲にすることを恥じない。生命はそうやって繋がってきたのだ。だからその山盛りの中落ち(¥1000)を私に寄越……あっ、あいこだ。あいこは次のジャンケンに進めるんですか?  え、ダメ?? あぁ、そうですか。

 

中落ちこそ手に入らなかったが、私は中トロの柵と化した彼の欠片を家に連れ帰った。正直、期待してたほど美味しくはなかった。