エピクロスの楽園

折角の人生、楽しく生きようぜ??

親への不完全なカミングアウトと孤独


(2019.4.7 佐野)

さっき女性ホルモンを打ちに家を出る途中、ふと父に呼び止められた。「これからの事を考えたら、もう(女性ホルモン)打つの止めた方がいいんじゃないか」って。そこから父親と話して深く落ち込んで、自分の考えを纏める為に急遽このブログを打っている次第だ。だから今回の文章はとても読みにくいかも知れない。申し訳ない。


私の両親は、私が性転換治療を受けている事を知っている。もう隠すのは無理だと判断した私がポロッと失言するフリして親にバラしたからだ。かれこれ数ヶ月程前の話だろうか。それでも親達は私の事を「綺麗になりたくて女性ホルモンに手を出した半端者」としか思ってはいないだろう。かつて私が本当に女性になる事を目指していた事、そして私がどれだけ男性性を憎んでいるかということを、彼らは何も知らない。そりゃそうだ、私が何も伝えてないんだから。


親を悲しませる事。そして、親に見捨てられる事。それは、私にとって何よりも恐怖だから。


胸が出て来たのにブラジャーを買えないこと。巷に溢れるLGBTの話題を、自分を主語にして語れないこと。私が親のもとにいる限り、それはずっとそのままだろう。


美容の話をするようになった。レディースの服をちょくちょく買い揃えられるようになった。恐らくそれが可能なのは、「ジェンダーレス男子の間でも普通の事だから」という部分が大きいと思う。化粧は既に女性だけのものでは無くなった。社会は少しずつ、私の生きやすいように変わってゆく。それでも、ブラジャーが身につけられるようになる日は、私には一生来ない気がする。


「勝手に性転換しといて何を言うか」と言う人もいるかも知れない。だが、アリナシのニューハーフになる事は、私にとって「最低ライン」だったのだ。たぶん、今の私が自分にとって一番の「私」。そのラインまで自分を変えないと、私は一生苦しむままだって分かっていたから。


で。


さっき話してた中で、父は「親としては、孫の顔が見たいのが正直なところだ」という台詞を漏らした。「だから、もしもの時のために、そういう(生殖)機能は残しておいた方がいいんじゃない?」


「孫の顔が見たい」と親から言われるというシチュエーションは、割とあるあるだと思う。そんな親の願いは、きっととても普遍的なものだろう。その時、皆さんならどういう思いを抱くだろうか?


「私はレズビアンだって言ってるのに!」と憤慨する人。「そんなの親が決める事じゃないでしょ?!」と反発する人。きっと、色んな人がいる事だろう。


私は、ただただ悲しかった。


生殖機能を保存も何も、私は既に睾丸を摘出してしまっているのに。もう子供を作る事なんて出来ないのに。私は親の純粋な願いを否定など出来ない。かと言って、私にはもうその願いを叶える事は出来ない。私はただ泣きたかった。そして、そうやって泣くだけで許しを乞おうとしている自分に気付いて情けなかった。


親たちの知らないうちに、私はどんどん嘘を重ねてゆく。


別に、私は親に対して自分への理解を求めたい訳ではない。親だからという理由で自分の価値観を押し付けるのは可哀想だと私は思う。それでも、何も言わずな当たり前のように私のそばにいて欲しいとは思うけど。


「自分の身体は自分だけのものだ、だから何をやっても勝手なんだ!」と、かつての私なら言い切っただろう。だが、今はの私にはそうは思えない。親があってこその私なのだ。私という存在の主体性は、ほぼ親によって担われている。かつてはそれが嫌で、九州の片田舎から逃げ出した。でも、二年間の一人暮らしを経て、私の牙はすっかり鋭さを失ってしまった。


私は、一人では生きてゆけないのだ。恋愛感情も性欲もないけれど、実は私、結婚願望だけは人一倍抱えているのだった。


だが、「結婚して子供を設ける々という幸せの具現を、私は自分の意思で破棄してしまった。結婚自体は可能かもしれないけれど、私の両親が実の孫を見る日は永遠に訪れない。訪れないのだ!


親に嘘を吐き続け、自分の本心も誤魔化し続けて、私はもう、この先どうしたらいいのか分からない。


私は孤独な人間だ。誰一人、私の心の中へと招き入れる事を許せなかったし、私自身、自分の事をずっと拒絶し続けている。もう全てを諦めてしたくて、それでも投げ捨てられない人生が続いてゆく。


絶望と不安は増してゆく一方だ。


「心配なんだよ」と親は言う。私も自分の将来はとても不安だ。恐らくそう遠くないうちに、私は親という依代を喪うだろう。その後、私が生きてゆくビジョンはどうしても見えない。


私の将来の夢は、美人なお姉さんのヒモである。そうやって社会人になる事なく、自分の人生の全てを捧げたい。


ただまぁ、そんな理想を言っても仕方ない。妄想だけで私が孤独死する未来は回避出来ない。色々と性格や境遇に難があり過ぎる私だが、それでも私なりに人生の同志を作っていけたらいいな、と最近とみに思い始めた。ずっと人間関係をぶった切り続けて来た私がそれを新たに結ぼうとするのは相当難しいけれど、程々でもいいから努力はしようと思う。


「これをしよう、これを続けよう!」と決意する事は、私にとっては却って怠慢に繋がってしまう。親との関係は、今後生きてゆく中で色んな悩みに直面しつつもその都度何とかやってけたらなー程度の気持ちだし、今の状態を変えようと奮闘しても結局両者ともただ疲弊して終わる気がする。人間関係も、見境なくたくさん築こうとした所で、維持が怠くなって全て無かった事にしてしまうのがオチたろう。


ただ、もっと、一人一人の存在を噛み締めていけたらなぁと。


私のためじゃなく、大好きな誰かのために生きる人生。私にも、いつかはそういう存在が出来るのだろうか……?


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