エピクロスの楽園

折角の人生、楽しく生きようぜ??

人格分立への実験


(2019.7.13 本駒込)


今、わたしは新たな記事を書いている。「わたし、この意識(仮題)」というその記事は、今大学の授業なんかでやってる「心の哲学」を下敷きに、スーザン・ブラックモアの「ミーム・マシーンとしてのわたし」の内容を踏まえて書き進めている最中だ。ほら、哲学的ゾンビとかクオリアとか、それ関連のお話なんだけど。


その途中で、ふとわたしの「人格」について触れておきたくなったので、急遽この記事を書き上げてみた。


そう、人格。


この前……と言っても、もう一ヶ月以上前かな? わたしはとあるMtFさんと会う機会があった。このブログで散々MtFを擁護しつ貶してきたわたしだけど、実は生身のMtFと会うのはこれが初めてだったのだ。いや、会うのが初めてと言うと語弊があるな。MtFさんと実際に「絡む」のは初めてだった。


結果、わたしは自分の愚かさをまざまざと思い知らされるハメになった。


端的に言って、わたしはTwitterの世界に踊らされ過ぎていたのだと思う。そして、リアルな外の世界をほぼ無視していた。インターネット越しではない、生身で生きるMtFという存在に。


彼女の事をここで語るのはプライバシーの侵害になるからやんないけど、ただ一つ言える事は、彼女は至極「幸せそうな」人間だった。これは衝撃だった、だってMtFは皆自分の理想と現実の乖離に苦しめられ続けているのだと思ってたから。幸せとは無縁な、ただ悲惨な存在だと思っていたから。


MtFという存在を貶めようとする意図が少なからずあった事を、わたしはここに白状しておこう。自分が同棲愛者であることを受け入れられずに執拗にゲイを批判するゲイの存在は知ってたけど、わたしも似たようなものだったのかも知れない。少なくとも、わたしが自分の中に眠る「女」という自我を否定しようとしていた事は事実だ。


ぜんぶ、諦めてしまいたかったのだ。だって、「女」という自我をインストール出来る身体など、わたしは持ち合わせてはいなかったのだから。


みんな諦めてしまえばいいと思った。叶わないのに「女」という実態にしがみつき続けるMtFたちは醜いとすら思っていた。でも、そんなわたしの「醜い」願いは、彼女に会ってどこかへと吹き飛んでいった。


なんていうか、すごく普通な人だな、と思った。MtFだからどーのこーの、みたいな異質さを一切感じなかった。彼女には色々質問されたけど、正直わたしについてなんてどうでも良かったし、何を話したかなんてよく覚えていない。なんかシリアスめな雰囲気だけ醸し出してたけど、それはそうしてた方が雰囲気出るかなーと思ってただけで、ほんとに悲しくなってた訳ではないからね? わたしと彼女を引き合わせてくれた子、今この記事読んでるか知らないけど。


自分をさらけ出す事自体に、わたしは何の抵抗もない。寧ろそうやって全てさらけ出してヘラヘラ生きてた方がよっぽど楽だ。ただそれについて色々ご講釈を垂れられるのが億劫だってだけで。わたしはわたしを色んなひとに伝えたいから、こうやってブログを書いているの訳なのだし。


トランスジェンダーという存在を今まで散々コケにして、本当に申し訳なく思っている。まぁ色々と煩い一派が居るのは事実だけど、あぁやってフツーに生きているMtFもいるんだなって。ほぼ埋没してるMtFも、以外といっぱい居るのかも知れないなって。わたしはもう部外者なので、彼女らの問題に口を出すつもりははいけれど。


わたしはもう、部外者なので。














トランスジェンダーとしての自分を捨て、改めて自分の性自認を振り返ってみた。前の記事、確か「脱トランス宣言」で、わたしは「身体は女性なXジェンダーになりたかった」という文句を書き殴った記憶がある。あの頃はなんとなーくの感覚でソレを記した訳だけど、最近わたしの性自認はかなりハッキリしてきて、結構的を射た表現ではあったなーと思っている。


わたしにはだいたい3つの人格がある、と今のわたしは考えている。


半年近く前、わたしは「女装男子インビジブルな恋愛事情。」というネット小説にハマっていた。最近になってこの小説を再発見し、現在は二度目のブーム真っ只中。この小説は、平たく言えばひょんな事から女装させられた捻くれ系主人公が、芽生えた女性としての自我と向き合い、葛藤しつつも周囲の人間たちのジレジレな関係を繰り広げてゆくものである。URLを貼っておくので、良かったら読んでみて欲しい。


https://ncode.syosetu.com/n2694fc/


……ちなみに、この小説に「主人公、中性ではなく両性では?」と口を出したのは、紛れもなくわたしである。


この小説は、わたしの自意識にけっこーな影響を齎した。「主人公、両性では?」と指摘したのはわたしだけど、指摘しながら「あ、わたしって両性なのか」と自分でもハッとしていた。勿論、両性という存在自体は知っていた。ただ、わたしは自分の事をずっと中性だと思ってたんだよね。わたしは性別なんかに帰属されない、唯一の存在だって。


ジェンダーレスという概念自体、ナルシシズム的な自意識の顕れだとわたしは思っている。ジェンダーレスという概念を被る特権は、美形にしか許されていない。そしてその弛まぬ美への努力無くして、ジェンダーレスへの道は開かれない。


たしか、初めてジェンダーレス男子を名乗ったのはXOXのとまん君だった。彼が美容ケアにかける時間は、一日で5時間とか言われている。その他彼の美へのスタンスは余りにぶっ飛んでいて、わたしにはドン引きする以外の反応が出来ない。わたしもたまに「え、女子の私より美意識高い〜」とか冗談めかして言われるけど、わたしの美容ケアなんぞ風呂上がって化粧水とトリートメントバシャバシャやったりと、至極最低限のものなのだ。これをズボラと言わずして何と言うのか。


そういった理由でジェンダーレスを名乗るのも烏滸がましいなーと思って、わたしは取り敢えず「オカマ」を名乗っていた。この呼称、自虐的でお気楽なので。ただこういう「オカマ」と名乗られる事を嫌う層も結構いて、内実わたし自身もどうかなーとは思っていたので、今回でキッパリ止める事にする。これからは--


--"××"、"秋"、そして"サキ"。


わたしの中にある人格は、だいたいこの三つだ。"××"に入るのは本名で(身バレが嫌なので本名出してないだけです)、この人格が司るのが男としての「わたし」だ。逆に"サキ"は女としての《わたし》で、"秋"がその中間、どっちつかずのわたし。普段ネットの人間と会ったりする時はどっちつかずの"秋"という通称を使っている。"秋"も"サキ"も、わたしの本名のもじりである。


この3つの人格は、べつに多重人格という訳じゃなくて、わたしの気分によって纏う仮面を変えているだけである。要するに、男として行動したくなったら"××"と、女として行動したくなったら"サキ"と自分で名乗っているだけだ。ただ3つの人格が併存することはないし、わたしとしてはこれらを厳密に区別したい。今はまだ曖昧だが、場合に応じてこれらの人格を使い分けてゆこうと思っている。


今ここで記事を書いている、そして普段Twitterで「心にうつりゆくよしなしごと」をそこはかとなく書き付くっているわたしは、全てどっちつかずな"秋"という人格のつもり。たまに、"××"に寄ったり、"サキ"に寄ったりはするけれど。


わたしは、たぶん両性だ。でも、わたしは単に「男でも、女でもある」存在、という訳ではない。わたしはジェンダーとしての男は許容するが、セックスとしての男は拒絶している。つまり、"××"という人格は、ジェンダーは男だが、セックスが男であるという文脈は含まれていない。


一方、"サキ"という人格は、わたしの身体では「成立し得ない」。なぜなら、わたしの身体は女性化してはいるが男であり、女になろうとするとどうしてもエラーが発生するからだ。先程紹介した「女装男子インビジブルな恋愛事情」を含め、大抵の小説では、登場する男子は容易く男としての自分と女としての自分を身体に纏うことに成功する。それは彼が女性として何の違和感もなく通用し得る類まれな容姿を有しているからであって、現実でそのような身体を持った男子は奇跡に等しい。当たり前だけど。


以前の記事でわたしの女装写真を載せてるし、わたしの女としてのクオリティは大体察して頂けると思う。あの時は表情筋が謎に死にまくってたので写真見ても「なんだかな〜〜〜」って感じだったが、今はもうちょいマシな表情やれると思う。あんな感じのは二度とやんないけど。


ちなみにこの前会ったMtFさんに「この前女装スタジオ行ったんですよ」と言ったら「そういう場所は単に女装趣味な奴らが行く所だからお前は行くな」と諭された。正直「そりゃそうだ」と思ったけど、よく女装の人がやりがちなフェニミン女装には興味はなくともゴスロリに興味はありありなのでそのうちまた行くかも知れない。懲りない女なので。まぁでも、フツーの女になりたいなら、そういうスタジオじゃなくて自分で頑張ろうね。


さて。


わたしのイメージとしては、"××"と"秋"と"サキ"は同一線分上に属する人格だ。例えば0を完全なる男、1を完全なる女とすると、0.0~0.2辺りの人格を"××"、0.3~0.7辺りを"秋"、0.8~1.0を"サキ"として定義している。図示すると、こんなかんじ。



ややこしい? ですよね、こめんなさい。


わたしの精神は酷く不安定で、その時その時の気分によってわたしのキャラはブレにブレていた。特に高校時代は自分のキャラが分からなくて、自分で色んなキャラを構築は、「しっくり来ないなぁ」と捨て去る日々を続けていた。今でも「わたし」という概念はひどく曖昧で、自分がどんな存在かなんて全く分かっていない。自分って、この宇宙で最も身近でかつ難しい問題だとわたしは思う。だって、これを解決するものは、結局自分しかいないのだから。


言ってしまえば、わたしの人格を構成する軸は性別以外にも色々あって、例えば「躁と鬱」「肯定と否定」のような様々な軸上を、わたしという存在は常にちょろちょろ動き回っている。まぁそもそも、わたしという存在に実体などない訳で……っと、これは「次記事のわたし、この仮題」で取り上げる話題だね。


ただ、そうやって常に変動する『わたし』の様相を正確に捉えようとしても無駄無駄のムニエル(?)なので、とりま最もアイデンティティの根幹を成す性別を軸に、わたしの人格を規定している訳である。


結局、「性別なんかに囚われるな!!」とか言いながら、一番囚われてるのはわたしなんだよね。だって、大抵と人は「自分の性別って……」みたいな感じで悩む事ほぼ無いでしょ。でもダメなんだよね、抜け出せない。自分の性に拘泥せずにはいられない。


振り返ってみれば、わたしの出発点は男というセックス(生物学的性別)の否定だった。高一の頃一時的にホルモン剤を飲んでいた頃、わたしの目標はあくまで「男でも女でもない存在」になる事だった。……あぁ、そういえばそうだった。わたしは最初から女になることを欲していた訳ではないのか。


女性ホルモンの服用により自分の身体を男から遠ざけ、最終的に手術で性器を取り除くこと。それが当初の目標であり、一応自然に見えるように陰唇くらいは付ける予定だったけど、膣まで造成する気は更々無かった。今もそうだけど。


でも、それから色々情報を仕入れるにつれ、わたしの女性に対する憧れは加速度的に膨らんでいった。そしていつしか、わたしの目標は「男じゃなくなりたい」から「女になりたい」にすり替わった……冷静に考えれば、恐らくそういう事だと思う。


ただ、当時の「女になりたかった自分」とサキは、決して同一の存在ではない。


その事について語るために、ちょっと「女性ホルモンは劇薬である」という話をしようと思う。

















女性ホルモンは劇薬である。その対象がただのシス男性であろうとも、女性ホルモンは彼の性自認を捻じ曲げ、女としての自意識を目覚めさせるだろう。


男である自分に執着する人間がわたしは不思議だった。何で彼らは何の疑いもなく自分の性を信仰出来るのだろうと。それは今もそうだし、結局そんなものはまやかしでしかないとわたしは思う。強制的に女性ホルモンを注入され女性としての自意識が芽生えた男性は、自分のアイデンティティの変化について行けず精神を病んでしまうのだろうか。仮にそうだとしても、わたしには彼らが精神を病む理由が分からない。それは単純に、高校入学前にわたしのアイデンティティが一度ぶっ壊れた事が関係しているのかも知れないかれど。


体内を流れる伝達物質をちょちょいと弄れるだけで、人間の意識は簡単にその状態を変える。我々のアイデンティティなんて、まさに砂上の楼閣のようなものなのだ。


性転換による変化は、色んな人が色んな事を言っている。例えばメンタルが弱くなったとか、甘いものが好きになったとか。わたしは今まで、そのような具体的な変化について全く触れて来なかった。なぜなら、わたしは自分の変化を全くと言っていいほど把握していなかったから。ただ最近になって、わたしの中でわたしの存在を揺るがす大きな変化があった。


それが、"サキ"の誕生であったのだ。


そう、"サキ"という人格が確立したのはつい最近(たぶんまだ1ヶ月も経っていない)なのだ。最初はさ、わたしは"××"でしか無かった。"秋"や"サキ"なんて何処にも居なかった。"××"が男としての自分を否定することを望んでトランスを決意して、その結果、"秋"や"サキ"という人格がわたしの中に構築されただけなのだ。


2年半前、自らの女性名を決めるトランスジェンダー達を見て、わたしも自分の女性名を決める事にした。当初名乗っていた名前は、"真咲"。この名前でわたしは小説を書き始め、Amebaでブログの運営を開始した。この名前は、タカラジェンヌの「龍真咲」という人を強く意識していた。


でもやがて、「真咲って、余りに響きが男っぽすぎるかな?」と思うようになり、新たな通称名を考える事にした。でも女らしい名前を自分につける勇気は無かったので、中性的な"秋"という名前を考え出した。確か一年くらい前の事である。真咲という通称はネットのハンネでしか使っていなかったけど、以後わたしは"秋"を現実での通称としても使ってゆくようになる。


で。


「女性らしく」に振り切れないように、中性でいられるようにと腐心していたわたしだけど、段々と女としての自我が拡大してくるのは自覚していた。これは明らかに、わたしが最初から備えていた特性ではないと思う。わたしは女だから性転換したのではない。性転換したから女になったのだ。


両性というジェンダーアイデンティティは、"サキ"という人格は、わたしが最初から持っていたものではない。性転換した結果こうなったのだ。


女としての自意識は、女になる事を目指していただけの自分とは明らかに違った。後者は、あくまで女らしい身体が欲しかっただけだった。好きな百合漫画みたいに女の子とキャッキャウフフしたい程度の願望はあったけど、女としてのジェンダーを手に入れる気は全く無かったのだ(そもそも当初のわたしはそんな事まで考えちゃいなかった、ただ必死だった)。わたしは焦った。そんな意識が芽生えた所で、わたしの身体じゃそんな願望を叶えられはしないからだ。だが、前者は明らかに違った。明らかに、自分が女として扱われる事を望んでいたのだ。


わたしは焦った。だってそんな願望が芽生えたところで、わたしの身体は女じゃないから、それを実行に移す事なんて出来やしない。か弱い女の子として男の子に抱き締められたくても、好きな男の子の腕の中で眠りにつく事も、何もかもが無理、ぜんぶ詰んでる。だから押し殺すしか無かった、新たな自分。わたしはその自分に、"サキ"という名前を付けた。


もうぶっちゃけるけど、わたしには"サキ"として……恐らく、"サキ"として好きな男の子がいる。別にキスしたいとかセックスしたいとかいう欲望はないけど、わたしの心は彼の存在を求めて止まない。彼を自分に繋ぎ止めたくて堪らない。


わたしは別に、アセクシャルでは無かったんだ。そう名乗っていたのはただの欺瞞。自分でそれを認めたくなかったから。認めたところで、どうしようもないから。


"サキ"は未だ、わたしの心の奥底に閉じ込められている。でも彼女はずっと、表に出たいと暴れている。わたしはそれが苦しくて、彼女をわたしの身体に顕現させる方法を捜している。今までずっと顔マッサージや小顔体操、ダイエットで誤魔化してきたけど、そろそろ整形のため、本格的にお金を貯めるべきかもしれない。


こうして、わたしは三つに分裂した。男を否定しつつ男として生きる"××"、ただの女になりたいと願う"サキ"、そしてどっちつかずな"秋"の三つに。こうなったのは間違いなく女性ホルモンの功罪だ。べつに後悔する気はないけれど、わたしは愈々どうしようもない存在になってしまったんだな、とふとした拍子に考えている。


女性ホルモンは劇薬である。その対象がただの男子だったわたしであっても、女性ホルモンはわたしの性自認を捻じ曲げ、女としての自意識を目覚めさせた。


だからと言って、今のわたしに着地点など分からない。仮に"サキ"という人格をわたしが纏ったところで、彼女としてこの先生きてゆくかと問われるとそれはまた別問題だし。


ただ、優先順位が"サキ"の方にある事は事実なのだ。"××"である事に男としての身体は不要だし、ていうか"××"という存在自体、わたしは本当は必要としていない。でも男として生きてゆくには彼が必要だから、わたしは必要性に駆られてその人格を残しているだけで。


ま、それについてあれこれ考える事はここではしない。この記事は、取り敢えずここで終わりだ。


皆さまの人生が、少しでも楽しいものにならんことを。


では、また。














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